神 社
富士市内 |
拝殿向拝蟇股 「真向の龍」 |
1,今泉立小路 神明宮 |
<所在地> 富士市今泉字立小路1214 |
<祭 神> 天照大神 |
<社 格> 村社 10等級 |
<社 殿> 本殿 拝殿 昭和11年10月17日再建 |
<由 緒> 中世以降、伊勢信仰が全国的に広まった時、伊勢講の拠点として建てられたと思われるが、創 |
建年代については明治13年の火災により社殿、古文書類も焼失のため資料がなく不詳である。 |
<彫刻詳細>拝殿正面 懸魚「飛龍」 大瓶鰭「浪」 虹梁「雲」 蟇股「牡丹」 |
拝殿向拝 蟇股「真向の龍」 虹梁「菊水」 手肘木「牡丹の籠彫」 木鼻「振向獅子」 |
入口虹梁 向拝虹梁裏 繋虹梁「若葉」 |
刻銘 昭和十一年十月十七日 奉納 井出せい 七十四歳 彫刻師 板倉 聖峯 |
拝殿右の木鼻 「振向獅子」 |
富士市今泉地区の立小路で今泉まちづくりセンター(旧名は今泉公民館)北側に祀られている。 |
拝殿向拝に眼光鋭く正面を見据えている龍は師の一番の力作だと言われる。制作時の昭和11年8月から10月というのは、 |
年令にして30才で独立して5〜6年あまり経った頃であろうか。いかにも溌溂とした若き鬼才の作品だと言えるであろう。 |
しっかりと珠を握り、左右に子龍を従えての構図は圧巻である。右眼の象嵌は欠落しているが、残った左眼は青い光を放ち |
対面する我々を凝視する。 |
師の作品の中でもここまで細かな作品が現存しているものは少ない。ただ右側木鼻の獅子がくわえる籠毬が欠落し、また |
龍の2本の髯も途中で欠損している姿があまりにもさびしい。これだけの作品の保存をなんとかしなくてはならない。 |
初回訪問時はただ龍に見据えられただけであり、翌年の次回訪問ではとりあえず撮影しただけであった。3度目の訪問で |
氏子連の清掃時にあたり、彫刻について尋ねたところ板倉師のこともよくご存知ではなかった。でも欠落した部分が確かに |
以前はあったこと非常に惜しんでおられた。 |
大事に保存するのにも費用がかかるため、氏子の寄進だけでは到底賄いきれず、行政からの補助金を望みたいものだ。 |
しかしながら、文化財指定については美術的評価や制作年代等、なかなか指定を受けるのが困難であり、そうこうしている |
内に木彫でしかも屋外という環境から自然劣化していってしまう。我々は師の作品を通して心の風化だけは絶対にさせまい |
と努力していかねばならないだろう。 |
拝殿向拝蟇股 「親子龍」 |
2,今泉 十王子神社 |
<所在地> 富士市今泉1894 |
<祭 神> 十王子神 |
<社 格> 村社 9等級 |
<社 殿> 本殿 拝殿 昭和15年10月再建 |
<由 緒> 創建年代は不詳であるが、当社は古くから正一位十王子大明神を祀った今泉村の総社であった。 |
明治後期に書かれたと思われる書類によると万治2年と刻まれた鰐口が伝えられていたようで、この |
ことから少なくともそれ以前の創建である。また棟札からは宝永6年のもの1枚が残されており社殿 |
の改築の時のものであろう。 |
<彫刻詳細>拝殿正面 千鳥破風懸魚「雲に鳳凰」 |
拝殿向拝 蟇股「親子龍」 木鼻「振向獅子」 虹梁「松に鶴」 入口虹梁 |
向拝虹梁裏「若葉」 繋虹梁 「浪」 |
妻部分 懸魚 六葉 鰭「雲」 |
刻銘 神奈川縣 湯ヶ原出身 現住 富士郡富士町 彫刻師 板倉 聖峯 之作 |
昭和十五年十月吉日 |
富士市今泉地区、吉原第二中学校東隣に祀られている。境内の南側は現在道路で参道が分断されているが、南端には |
市の指定天然記念物のイチョウの大樹が聳える。 |
鳥居をくぐり正面に権現造風の拝殿が見える。そして拝殿の後部は幣殿を通して本殿に連結している。拝殿周りの赤い |
高欄がとても印象的な社殿だ。本殿・拝殿共に昭和15年に再建されたもので刻銘よりその当時の師の作品であることが |
確定できる。 |
正面千鳥破風の懸魚には雲の中に鳳凰が舞い、向拝蟇股の龍は左右に子龍2匹を従え、というより親龍に絡むように |
何か微笑ましいような感じさえする。龍の表情も柔和に思えるのは気のせいだろうか。蟇股下虹梁には松に鶴が翼を |
広げ、右の木鼻には獅子が籠毬をくわえ、左の獅子は通常牡丹の枝をくわえているはずだが見当たらない。それより |
木鼻の振向獅子ではあまり見られないと思うが子獅子が体についている。どうも師の作品に出会ったときの迫力が感じ |
られず、手を合わせ仰ぎ見る上で親子の情愛のようなテーマが見られるのである。 |
拝殿向拝蟇股 「龍」 |
3,桧新田 愛鷹神社 |
<所在地> 富士市桧新田161 |
<祭 神> 天津日高日子番能邇々藝命 |
<社 格> 村社 12等級 |
<社 殿> 本殿 昭和8年10月再建 拝殿 昭和11年7月再建 |
<由 緒> 創建年代は寛文11年9月とされていますが、当時船津から移住開拓した人達の鎮守として祀った |
ものとされる。祭神は今井の愛鷹神社から勧請したものであろうと明治19年の社寺明細帳に記さ |
れている。現在の本殿は昭和7年11月14日の柏原大火によって焼失した翌年に再建されたもの |
である。 |
<彫刻詳細>拝殿向拝 蟇股「龍」 木鼻「振向獅子」 入口虹梁 向拝虹梁裏 繋虹梁「若葉」 |
妻部分 懸魚「雲に尾長」 |
刻銘 相模ノ國 湯ヶ原出身 現住 富士町 彫刻師 板倉 聖峯 作之 |
昭和十一年 十月 |
富士市元吉原地区の桧新田、旧国道1号(県道380号)の北側に祀られている。道路沿いに鳥居が建っているが、境内 |
は北側に長く参道を入っていくと、社殿のあるところは意外に閑静な佇まいであった。 |
拝殿の後部に本殿が連結された八幡造風の社殿である。本殿向拝にも彫刻されているが、昭和8年の町田市太郎重富 |
の作と刻されていた。師の作品は拝殿向拝まわりであるが、ここで目を引くのは虹梁の若葉である。蔓状に伸びた曲線 |
のノミ跡が非常にきれいで一目で師の作品だとわかるところだ。虹梁上の蟇股には一番多い構図である右向きの龍が |
横たわる。鱗の1枚1枚が丁寧に彫られているのも師のこだわりではないだろうか。ただ髯が根元から折れてなくなって |
いたのが大変残念であった。 |
蟇股・木鼻・虹梁・妻の懸魚と彫刻の数は少ないが、本殿の町田師の獅子と比較すると、1点1点の彫りの丁寧さ鋭さが |
実感できるのではないだろうか。獅子の風貌など作風の違いがあるにせよ、そのバランスといい迫力といい、決して他に |
引けをとらないというより傑出した作品だと思う。 |
拝殿右の木鼻 「振向獅子」 |
4,田中新田 米之宮神社 |
<所在地> 富士市田中新田211 |
<祭 神> 米之宮神 |
<社 格> 村社 11等級 |
<社 殿> 本殿 昭和43年10月17日再建 拝殿 昭和11年2月再建 |
<由 緒> 祭神の名前から食物や生産を司る神ではないかと思われる。本市場の郷社米之宮浅間神社を遷して |
祀ったものでもある。創建に関する由緒は殆ど不詳ではあるが元吉原村誌には開発奉行中村四郎 |
右衛門が寛文13年正月に建立したものと記されている。 |
<彫刻詳細>拝殿向拝 蟇股「牡丹に狂い獅子」 木鼻「振向獅子」 虹梁「牡丹」 向拝虹梁裏「若葉」 |
刻銘 相模國 湯ヶ原出身 現住 富士郡富士町 彫刻師 板倉 聖峰 作之 |
昭和十三年二月吉日 |
富士市元吉原地区旧国道1号沿い、田中新田(桧新田の愛鷹神社すぐ東側)に祀られている。本殿は昭和43年10月に |
コンクリート製で改築されているが、拝殿は平成元年10月に再築された際に旧社殿の彫刻をそのまま使われた。 |
妻の部分で懸魚と六葉、それに鰭の雲はやはり新しく平成元年のもの。向拝も繋虹梁、入口虹梁の若葉がきれいでそれ |
らしいが部材は新しく、師が80才以降は平垣の栄立寺山門に掛かる寺名看板を彫ったという記録以外不明である。また |
80才で一度倒れられた直後の時期としては師の作品であるとは考えにくい。 |
したがって入口虹梁、繋虹梁、肘木の若葉は他の彫刻師のもので、蟇股と木鼻それに向拝虹梁だけが師の作品となる。 |
蟇股の彫刻は牡丹に狂い獅子の図案であるが、同時期に制作していた富士宮の福知神社とよく似た構図である。裏の |
牡丹の葉脈まで手を抜かず刻銘もはっきりと読み取れる。木鼻の振向獅子は眼をカッと見開き、他の作品より何か厳つい |
形相をしている。蟇股下の虹梁にも牡丹の大輪が彩られ一層向拝が華やいで見える。 |
拝殿向拝蟇股 「松に孔雀」 |
5,中之郷 宇多利神社 |
<所在地> 富士市中之郷3067 |
<祭 神> 天照大神 伊邪那岐命 伊邪那美命 他 |
<社 格> 村社 6等級 |
<社 殿> 本殿 拝殿 昭和14年10月再建 |
<由 緒> 中之郷地区の旧村社で元七社権現といい、慶長2年曹洞宗宗清寺を創立した大嶽宗伯和尚が荒廃 |
した七社権現を再建し、神域の植林神田の寄進を行い、宗清寺を同社の別当寺として以後長く支配 |
した。明治8年神仏分離を行い社名も地名をとって宇多利神社と改められる。昭和14年に現在の |
神社の建物を建設し近年になり参道・玉垣などを新設した。 |
<彫刻詳細>拝殿向拝 蟇股「松に孔雀」 木鼻「振向獅子」 虹梁「菊花」 |
入口虹梁 繋虹梁 向拝虹梁裏「若葉」 |
妻部分 縣魚 六葉 鰭「雲」 |
刻銘 富士郡富士町 彫刻師 板倉 聖峯 作之 昭和十四年十月吉日 |
富士市富士川地区中之郷に祀られている。富士川地区の南部は河岸段丘上に旧東海道が伸びていて街道沿いに社寺が |
点在している。富士市が工業中心の近代化の中で、富士川地区は平成20年富士市と合併したが、一里塚を挟み江戸時代 |
の風情が残る貴重な街道筋である。 |
宇多利神社はその旧東海道蒲原寄りの西側斜面に鎮座している。街道からしばらく入っていくと鳥居が見え、その奥の |
斜面を右に回りこむようにして中腹の台状の地に社殿が見えてくる。本殿裏に出ると車の駐車スペースがあり、脚立を |
降ろし撮影準備にかかる。 |
拝殿に連結された本殿には彫刻が見られないので拝殿側に回ってみた。入母屋造の拝殿向拝には細密な彫刻が見ら |
れる。正面蟇股は龍ではなく松に孔雀の構図だ。松の中に遊ぶ2羽の孔雀は夫婦だろうか。雌の方を振り向く雄は孔雀 |
独特の尾羽の模様まで丁寧に彫られている。蟇股下の虹梁には菊花が咲き、木鼻には振向獅子が付く。虹梁裏と繋虹梁 |
拝殿入口にも若葉が香るように彫られていて何かそつなくまとまっているような感じがしたが、でもやはり孔雀の姿が印象 |
に残る神社だと思う。 |