静岡県内






本殿向拝蟇股  「親子龍」 


1,蒲原  若宮神社(本町区) 
     <所在地>  静岡市清水区蒲原3−27−11   
     <祭  神>  木之花佐久夜毘売命 
     <社  格>  村社  9等級 
     <社  殿>  本殿  昭和11年10月再建  拝殿  昭和40年再建 
     <由  緒>  社殿によると慶長16年9月の創建といわれ郷社祭神渡御の際、神輿休息所に設置された和歌宮 
             分社であったが、明治9年村社に改められた。同社の建築された本町御殿道北側一帯は寛永9年 
             修築された蒲原御殿地内で、神社参道と目されるあたりは蔵屋敷のあった代官直轄地であった。 
             若宮神社の名称は昭和57年に和歌宮神社から改称されたものである。 
     <彫刻詳細>本殿正面(妻入り)  懸魚  六葉  鰭「浪」  唐破風懸魚「桐に鳳凰」 
             本殿向拝  蟇股「親子龍」  木鼻「振向獅子」  虹梁「牡丹」  二重虹梁「若葉」             
                     手挟「雲に鶴」  中備右「太鼓を打つ天女」  中備左「琵琶を弾く天女」  
                     入口虹梁 海老虹梁 向拝虹梁裏「若葉」  入口虹梁上欄間「象の行進」 
                     入口左右小脇「雲に尾長」  本殿頭貫蟇股「若葉」 
                     向拝虹梁手肘木「浪に鯉」  海老虹梁手肘木「浪に千鳥」 
             本殿側面  拳鼻  頭貫蟇股「若葉」 
             中宮殿    唐破風懸魚「鳳凰」  中備琵琶板「獅子」  向拝蟇股「龍」  二重虹梁「若葉」 
                     向拝虹梁「浪に亀」  向拝虹梁手肘木「浪」  木鼻「真向いの獅子」  象鼻 
                     小脇右「上り龍」  小脇左「下り龍」  脇障子右「大黒天」  脇障子左「弁財天」 
                     妻の懸魚  六葉  妻虹梁「若葉」 


本殿向拝中備  「楽器を奏でる天女」


静岡市清水区の旧東海道蒲原宿に祀られている。この地は天正時代に徳川家康造営の御殿があったといわれている 
中心部で、現在は若宮神社として本町・柵・堀川と3区の氏子連によって守られている。 
拝殿は新しく彫刻は見えないが、背後に回りこむと急な階段、それもかなり急な階段がある。斜面右側に迂回して登って 
行く道もあるが直接急階段を登ってみる。運動不足の足にはややきつくなった頃本殿前に出た。正面唐破風の銅板屋根 
の葺き替え工事らしく足場が組んである。撮影は次回にしよう。 
さて2週間後に再訪問するがまだ工事が終わっておらず、全体が撮れないが可能な部分のみ撮影することにする。千鳥 
破風、軒唐破風付で妻入り入母屋造は、和歌宮神社を2回りくらい小さくしたような感じである。急斜面のテラス状の土地 
に建立するにはギリギリの大きさか。工事中のため扉が開いていて社殿内の中宮殿が見え、近く寄って拝観すると半間 
四方くらいのものだろうか、しかし立派に細部まで彫刻されている。これも師の作品だろうか、日記にはその記述もなく 
確証がない。 
更に1ヵ月後の訪問でも工事が続いており、ようやく本殿全体を撮影できたのはその年の暮れであった。正面の妻の部分 
の懸魚・鰭・六葉・軒唐破風の鳳凰、中備大瓶束の左右に天女が楽器を奏でる。二重虹梁上は若葉、下の虹梁には牡丹 
が彫りも深く鮮やかな姿を表す。虹梁の間の蟇股にはしっかりと珠を握った右向きの龍が左の子龍に何か話しかけている 
ようだ。向拝柱の左右には獅子、虹梁手肘木には浪に鯉、海老虹梁の若葉とここにも手肘木が付き、上を見ると手挟の雲 
に鶴が悠然と舞う姿が見える。本殿入口虹梁上の欄間には親子で5頭の象が行進しており、入口左右の小脇は雲に尾長 
が彫られ向拝全体が彫刻で埋め尽くされているようである。 
しかし、これだけの力作の数々ではあるが、何故かどこにも銘がない。この後しばらく建築年を調べることになるが、本殿脇 
の手水舎水盤の寄贈年月からすると昭和11年10月となっていて、師の記述の彫刻制作年と一致していない。蒲原町史 
によると昭和57年3月に若宮神社は旧名和歌宮神社から社名変更したらしい。では新田の和歌宮神社と同名であったの 
だろうか。確証が得られないままに年月を過ごす。 
2年後の10月祭礼準備をしている氏子連を訪ねた。準備中なら集っている氏子から何か情報が得られるのではないか。 
そんな期待をしながら大変忙しそうな中に手を止めてもらった。ここは御殿跡で本町区だから新田よりこちらの方が先に 
できたのではないか。そんな話の間に本殿まで鍵を持って案内していただいた。非常に恐縮であるが多少興奮気味の 
気持を抑えて解かれた施錠の中を覗く。早速棟札の所在を確かめると中宮殿の後に2枚の板札があるということだった。 
1枚は拝殿再築の昭和40年のもの、そしてもう1枚の本殿建築年がここでやっとはっきりした。やはり昭和11年10月と
なっている。
だが墨書のなかに彫刻師の名前がない。作風特に獅子の特徴等から間違いはないと思われるが、日記の記述では昭和 
12年和歌宮神社と同時期に制作したことになっており、神社名を書き直した跡もあってはっきりとはしないが2社同時進行 
したのではないだろうか。因みに慎治氏、坪井氏の証言も得て師の作品に断定したい。私の一番気に入っている作品で
あり、何度訪れても見飽きるということがない。 






拝殿右の木鼻  「振向獅子」 


2,富士宮  福知神社 
     <所在地>  富士宮市朝日町12−4 
     <祭  神>  大山祇神   
     <社  格>  無格社 
     <社  殿>  本殿  幣殿  拝殿  昭和13年3月再建 
     <由  緒>  駿河風土記に「孝明天皇二年丁卯六月始祭之」とある。社号は不二神社、福地明神とも称する。明治 
             10年3月21日、内務省達を以って浅間神社の摂社に定められる。 
     <彫刻詳細>拝殿向拝  蟇股「牡丹に狂い獅子」  木鼻「振向獅子」  虹梁「菊花」   
                     入口虹梁 繋虹梁 向拝虹梁裏「若葉」 
             妻部分    懸魚  六葉(一部欠損) 
             刻銘     相模國  湯ヶ原出身  現住  富士郡 富士町  彫刻師  板倉 聖峰  作之      
                     昭和十三年一月吉日 


富士宮市の浅間大社を中心として北西側の朝日町に祀られている。棟札によると改築の竣工年月日は昭和13年3月 
31日となっており、師の日記による昭和13年1月から3月にかけての記述と一致する。浅間大社の摂社となり不二神社 
又は富知神社とも言われていたようで、拝殿に掛けられた額の字も富知神社となっている。 
南向きの社殿配置は正面拝殿が三間社日吉造で鋼板瓦棒葺、奥の本殿は一間社流造の銅板葺である。本殿向拝には 
虹梁と手挟くらいであまり目立った彫刻がない。拝殿の向拝には一応ポイントには彫刻が付いているが何か物足りなさを 
感じるのは何故か。向拝蟇股には田中新田米之宮神社と同じ構図の狂い獅子を嵌めてあるが、向拝柱上の斗拱の間が 
さびしくもう少し空間を埋めて欲しい気がする。しかし、師の日記を眺めてみるに両社全く同時期の制作であり、他にもこの 
時期は個人の仏壇やら小宮の依頼も受け日夜フル回転での日々ではなかったかと想像できる。実際に昭和13年から 
5年間くらいの作品が非常に多いのである。 






拝殿向拝蟇股  「龍」 


3,由比  豊積神社 
     <所在地>  静岡市清水区由比町屋原185 
     <祭  神>  木之花佐久夜毘売命 
     <社  格>  郷社  6等級 
     <社  殿>  本殿  文政8年9月建立  拝殿  昭和21年7月再建
     <由  緒>  白鳳時代朱鳥元年、町屋の市に豊宇気毘売を祀る豊積社が建立された。延暦16年春、東征の
             ため坂上田村麻呂が豊積神社に立ち寄り戦捷祈願し戦に勝利したので、京に帰還する際豊積 
             神社にて戦捷祝賀の宴を催して神楽を奉納した。現存する棟札は慶長5年、寛文7年、宝暦7年 
             享保17年、安永3年、文政8年等計16枚ある。 
     <彫刻詳細>拝殿向拝  蟇股「龍」  木鼻「振向獅子」  虹梁「牡丹」  入口虹梁 繋虹梁 向拝裏「若葉」 
                     繋虹梁手肘木右「雲に鶴」  繋虹梁手肘木左「浪に亀」  脇障子「登龍門」 
             手水舎    虹梁  拳鼻「若葉」  蟇股  懸魚  六葉 
             刻銘     静岡縣  富士郡  富士町  彫刻師  板倉 聖峯  作之 
                     昭和廿一年六月吉日 


静岡市清水区由比の旧国道1号(県道396号)で東海道由比宿の西側に祀られている。社殿は町屋原という表示の 
ある歩道橋の南側に地持院と並ぶようにして建立されていた。 
周りの木立の中、参道の南側に回りこむ。由来書によると創建は白鳳時代らしくかなりの由緒である。拝殿は入母屋
造、奥に一間社流造の風格ある本殿が鎮座している。社格も旧社格で郷社、現6等級とこの辺りでは高い方で、16枚 
もの棟札が残されているように、これまで幾多の再建改修が繰り返されてきた。 
現在の建物は戦後の昭和21年に拝殿が再建、昭和28年に本殿も修復されたようである。師の日記には昭和19年 
10月のところに記述されてはいるが、実際この時期は大戦も末期で師も横浜の工場に動員されたりしていた時であ 
る。おそらく注文を受け仕事にかかったが中断せざるを得なかったのだろう。 
拝殿蟇股の裏には昭和21年6月とあるから、終戦になり昭和20年10月末日をもって徴用解除された後に再開した 
ものと思われる。由比町史にも昭和21年7月再建とある。 
撮影は初回訪問時の翌年3回目に脚立を持ち込みしっかりと撮る。木鼻の獅子と合わせるように拝殿向拝の虹梁に 
は牡丹が付く。右の振向獅子は籠毬の緒をくわえているが籠の下半分が欠け中の毬も失っている。左の獅子には 
顔の前に子供が付いているようだがはっきりとはわかりにくい。少々残念な気もするがカメラの光に一瞬眼が輝いた 
ような気がした。繋虹梁の手肘木左右には鶴と亀の縁起物、脇障子両側は定番の登龍門である。蟇股の龍は右向 
きで左の髯が真横にピンと張り、取り巻く火焔も横に流れた構図だ。蒲原光蓮寺向拝と同タイプであるが、髯の根元 
が折れ口を開いた形は光蓮寺に比較すると迫力に欠ける感がある。しかし、鱗の彫りは細かく眼は白銀に光る象嵌 
をはめこんでいるようだ。戦争中で仕事ができなかった数年間が終わり、やっと平和が戻った時代を考えると何か 
安堵感をも覚えるような作品である。それから20年後、昭和41年の暮れから師の還暦を迎えた頃、手水舎の彫刻 
を手がけている。 






拝殿唐破風懸魚  「費長房」 


4,御殿場  日吉神社 
     <所在地>  御殿場市川島田1568 
     <祭  神>  大巳貴命   大山咋命
     <社  格>  村社  6等級    
     <社  殿>  創立  再建  不明 
     <由  緒>  創立創建は不詳であるが、正徳5年(1715)の棟札があるのでそれ以前と思われる。古老の伝によれば 
             昔横走街道の古礼であったという。また当社は近江國(滋賀村)の日吉神社より勧請されたとも伝えら 
             れているが定かではない。合祀社に八幡神社・山神社・愛宕神社・神明神社があり、境内は広く樹勢の 
             よい老杉が繁り神域を荘厳にしている。 
     <彫刻詳細>拝殿正面  唐破風懸魚「鶴に乗る費長房」  唐破風桁隠し「浪に千鳥」 
             拝殿向拝  中備「司馬温公 甕割の図」  蟇股「龍」  木鼻「振向獅子」  虹梁「牡丹」 
                     二重虹梁上「浪」  海老虹梁「浪」「若葉」  入口虹梁「菊」  向拝虹梁裏「若葉」 
                     手挟右「松に孔雀」  手挟左「浪に亀」 
             妻部分    縣魚右「雲に飛龍」  懸魚左「桐に鳳凰」  桁隠し「雲」  虹梁 蟇股 拳鼻 持送り「若葉」 
             刻銘     静岡縣  富士郡  富士町  彫刻師  板倉 聖峰  作之  昭和拾六年九月吉日 


御殿場市は国道246号の川島田交差点を西に入ったところに祀られている。境内は杉の古木が林立する中にひっそりと、それ 
でいて荘厳さを醸しだしてもいる。社殿は八幡造風で拝殿に唐破風と、また裳階のような庇が付き、本殿は神明造になって 
いる。初回訪問時は拝殿向拝部の修復工事中であり、社殿の側面のみ撮影し再訪時に詳細を残す。 
3週間後に修復なった向拝部を撮影する。塗装されたためか、やや黄色味がかって見えた。拝殿正面の軒唐破風に付けられた 
懸魚は雲上を悠々と鶴に乗って飛ぶ費長房仙人、破風板の桁隠しには浪に戯れる千鳥が付く。懸魚奥の中備は、大瓶束を大き 
な甕にしての司馬温公甕割りの図である。これはよく使われる中国故事の構図だ。人物の細部までノミが入っておらず残念だ 
が、甕を割って救われた子供と周りで喜ぶ子供の表情が見えるようである。 
二重虹梁の上は浪、下の虹梁には木鼻の獅子に合わせるように牡丹が咲いている。獅子の顔つきが師の他の作品と少し 
違って見えるのは気のせいだろうか。額の巻毛の下でカッと見開いて相手を威嚇するような眼が多いのに、ここの獅子は他の 
ものより細く奥に深い。蟇股の龍は右向きで構図としては4年前に制作された蒲原諏訪神社のものに近く一番多く見られる姿 
ではあるが、何といっても髯の末端までそれに周りをとりまく火焔まで破損がなく喜ばしいことである。昭和16年から60有余年 
もの間、完全な形で残されているのは、環境もあるだろうがやはり関係者の努力を抜きには語れないであろう。 
他に海老虹梁の浪と若葉、入口虹梁の菊、手挟はやや彫りが浅く思えるが右側は松に孔雀、左側が浪に亀と向拝部は豊富 
だ。拝殿側面に回ってみる。妻の部分懸魚には右側が雲の中に飛龍、そして左側が桐の中に鳳凰が飛ぶ。ここまであって 
どうして左右に取り付けられた脇障子には何も彫られてないのだろうか。不思議であり非常に残念でもある。これだけのものを 
制作した昭和16年、師が35才気力も体力も充実して県東部を駆け回っていたようだ。 






手水舎妻飾り  「水仙」 


5,清水  美濃輪稲荷
     <所在地>  静岡市清水区美濃輪町6−12 
     <祭  神>  宇迦之御魂大神  猿田彦大神  大宮姫大神 
     <社  格>  村社  3等級 
     <社  殿>  手水舎  昭和27年3月建立 
     <由  緒>   寛永年間、松平甲斐守保之の勧請により清水港向島に御鎮座になったのが始めである。その後100年  
             を経て享保5年3月15日に子孫の松平美濃守吉里が大和国へ所替となった折、現在の地で袋城の 
             外郭「美濃輪」の内裁許山に遷座し今日に及んである。 
     <彫刻詳細>手水舎  正面・背面虹梁「浪に千鳥」  正面・背面蟇股「龍」  四方木鼻「獅子」   
             妻の懸魚「雲に狐」  妻の鰭「水仙」  妻虹梁「若葉」  妻の蟇股「水にオシドリ」 


現在は静岡市清水区となったが、清水の市街地中心部のやや南よりに祀られている。すぐ西側には梅蔭寺があり東側 
には次郎長の生家がある。この辺りはいかにも門前町といった下町風情を感じるところである。 
社殿はかなり古いがここの境内に手水舎を建築したのが昭和27年3月のことであった。美濃輪稲荷は日記より抜け落ちて 
いるため鈴木富男氏の調査から訪問してみると、本殿・拝殿は明らかに違うことがわかる。 
境内に建つ手水舎を見ると各部材に彫刻が施してある。4本の柱の木鼻にはそれぞれ師の特徴である獅子頭が、そして 
正面蟇股の表裏2面と背面の蟇股にも龍が彫刻されていた。正面表裏の2匹は各々上向きの左右を向いた姿が一体化 
している。デザインは今泉愛鷹神社のタイプで、また背面の方は蒲原諏訪神社のタイプだ。手水舎の蟇股のような小さな 
龍にも尾の末端まできっちりと手を抜くことなく彫られていて、感心するやらいかにも板倉師らしい几帳面さを感じるもの 
である。 
他の作品に目を向けると、正面と背面の虹梁には浪間で遊ぶ千鳥の姿の愛らしさが表現され、虹梁の木鼻では獅子が 
四方を睨みつけている。さらに妻の部分では虹梁には若葉、蟇股には2羽のオシドリが仲睦まじく寄り添っている。 
しかしそれにも増して目を引くのは妻飾りであった。二重虹梁の上で束を挟むように、水仙の花が咲きその香りが漂って 
くるようである。懸魚の左側は半分割れて落ちてはいたが、右側には稲荷神社らしく雲の中を狐が駆けていた。 
撮影後に確認のため社務所を訪問する。宮司は不在であったが奥様に応対していただき板倉師の名前が口から出る。 
やはり間違いないようだ。帰り際に呼び止められて写真を拝見。昭和27年3月の手水舎落成式の集合写真であった。 
先代(現宮司の父)の隣に紋付姿で写っているのが師であるという。大変に貴重な資料となり帰途につく心もはずむ。 






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