静岡県外






拝殿向拝蟇股  「龍」 


1,神奈川大和  山神社 
     <所在地>  神奈川県大和市中央5−6−3 
     <祭  神>  大山祇命 
     <社  格>  村社  等級不明 
     <社  殿>  本殿  拝殿  昭和42年再建 
     <由  緒>  下草柳の鎮守として江戸時代には熊野神社を祀っていたが、明治維新後は下草柳に数社あった 
             山王社を統合して山神社を創建した。現在地には昭和42年に移転した。 
     <彫刻詳細>拝殿向拝  蟇股「龍」  木鼻「振向獅子」  向拝虹梁 海老虹梁 向拝虹梁裏「若葉」 
             妻部分    懸魚 六葉 鰭「雲」  
             中宮殿    向拝蟇股 向拝虹梁「若葉」  木鼻「獅子」 
             刻銘     靜岡県富士市本市場  彫刻師  板倉 聖峯  之作  昭和四十二丁未年七月吉日 


拝殿向拝木鼻右  「振向獅子」


神奈川県大和市中央は大和市街地の中心部、小田急・相鉄の大和駅すぐ西側にありそこに祀られている。大和駅南口 
より県道40号を西に400mほど行って少し南に入ったところであった。 
境内入口には木製の神明鳥居が建っており、くぐると右側に社務所、明神鳥居の向こうに拝殿が見える。社殿右脇にも 
稲荷明神の真新しい小祠が祀られていた。境内に入ると拝殿の扉が開いていてなにやら数名の人達が見えている。初宮 
参りのようである。終わるまで外で待機。 
社殿は流造の拝殿に廊下の後方切妻の本殿が連結されている。また新しく改修されているようで、拝殿側面のガラス戸や 
本殿の新建材での姿に、時代であろうがなんとなく寂しさをも感じてしまう。 
しかしながら拝殿向拝にはしっかりと彫刻が残されていた。向拝柱の斗?から斗?の間いっぱいに龍の体がうねっている。 
その構図は右上向きで今泉愛鷹神社のタイプだ。木鼻の獅子においても巻毛の線といい、虹梁の若葉の線にも今までの 
一刀で表現したような鋭さは見られなくなっていた。しかし相変わらずノミ跡は見事であり、師の61才時の仕事として完成 
された作品に他ならないであろう。 
拝殿の撮影が終わり、なかなか直接宮司に話を聞く機会がないので社務所を訪ねる。珍しく女性の方であった。その話では 
古い時代のことは不明だが、昭和42年に下草柳という綾瀬よりのところから移築したとのこと。綾瀬の工務店からの依頼で 
板倉師が受注したのではないかという話がある。話を伺いながら拝殿から廊下を通り本殿に案内していただく。神座に据え 
られた中宮殿の撮影も許可され恐縮。この作品も昭和46年に師によって作られたもので、木鼻の獅子の上斗?部分のみ 
新しくしたらしい。 






拝殿木鼻左外側  「獏」


2,東京大森  三輪厳嶋神社 
     <所在地>  東京都大田区大森東4−35−3 
     <祭  神>  市杵嶋姫命 
     <社  格>  無格社  6等級 
     <社  殿>  本殿  拝殿  昭和28年再建 
     <由  緒>  治承4年(1180)源義経が多摩川を渡ろうとした時、嵐のため海まで流されて岸に見える神社に 
             向かって祈ったという。すると嵐は収まり無事に岸に着くことができたという。義経は神の加護に 
             感謝をして社殿の修理をした。その後正月11日には水神を祭り、浜辺には注連竹を立てたが 
             その注連竹に付着した黒い海草が海苔であった。この海苔は鎌倉の将軍をはじめ江戸幕府の 
             将軍家にも最後まで献上されたという。このことから、大森の海苔業者の信仰を集め、昭和3年 
             に三輪神社と厳嶋神社が合併して三輪厳嶋神社となった。 
     <彫刻詳細>拝殿正面  千鳥破風懸魚「雲」  千鳥破風大瓶鰭「浪」  千鳥破風虹梁「若葉」 
                     唐破風懸魚「飛龍に弁天」 
             拝殿向拝  蟇股「龍」  木鼻正面「獅子」  木鼻左右「獏」  向拝虹梁「浪に千鳥」 
                     海老虹梁「雲」「浪」  入口虹梁 手挟 拳鼻 向拝虹梁裏「若葉」 
             拝殿側面  頭貫虹梁 拳鼻「若葉」  脇障子「牡丹に獅子の子落し」 


東京大田区大森4丁目の国道131号(産業道路)沿いに祀られている。JR横浜駅から京浜急行に乗り換え梅屋敷駅 
にて下車。国道15号(第1京浜)下をくぐり商店街を東に進む。5〜600mも行くと広い産業道路に出るが反対側に 
神社の社殿が見えている。 
境内には百度石なるものや銭洗い弁天の小祠があったりするが、いかにも東京の神社らしく少ない木立に社殿が 
浮き上がって見えるようだ。ここは通称大森の弁天神社として名高く、境内としては決して広くはないが相応の社殿を 
構えている。一見権現造風の入母屋の拝殿は千鳥破風と唐破風付で一間社流造の本殿に連結していた。 
事前の調査ではっきりとした記録が見つからなかったが、師の記述には「大森弁天神社拝殿の仕事」とだけある。 
しかし刻銘がないので不明であるが、どうも拝殿再築年から察するに昭和27年2月らしい。 
向拝柱の獅子と左右の獏鼻、それに虹梁の若葉などは師の特徴が如実に表れているが、どうにも向拝蟇股の龍に 
納得がいかない。正面軒唐破風の弁天を乗せた飛龍は似た作風が感じられるが、蟇股の方は鱗の線といい他人の 
手によるものだろうか。昭和27年にはちょうど同じ構図の懸魚を作成している。富士宮咲花の山車であるが、こちら 
には銘が彫られているので間違いなく、大森弁天も師の作だと確信が持てよう。その他にも向拝虹梁の浪の細密さ 
や手挟の大胆な若葉の彫り、牡丹に獅子の子落しを配した脇障子など一つ一つ見るべき作品が多い。 
撮影後、社務所に立ち寄るが詳細は不明で、紹介された氏子の家を訪問する。話によると作者はわからないが、 
静岡の富士山近くから来た宮大工が建てたということで社殿は昭和28年落成であるという。おそらく師に間違い 
なかろう。この後で判明することだが、密乗院住職の話で確定的になる。 






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