語りはじめ
きっかけは「吉原祇園祭」の屋台彫刻からであった。平成17年の9月、先輩であり家族ぐるみ |
でお世話になっている林豊氏よりこういう話があった。「今度、東京葛飾の博物館で青砥藤綱に |
関する展覧会を開くらしい。学芸員の方から電話があって、本町二丁目の屋台にある青砥藤綱の |
欄間について写真を展示したいので借りたい。」とだいたいはこのようなことである。話を聞い |
て林氏に尋ねてみたところ、屋台の制作や彫刻についての資料はなく、作者不明であるという |
ことであった。せっかくそのような依頼を受けた以上、何とか制作年と作者くらいは調べておい |
た方がいいだろう。ということになり、すべてはここから始まったのである。 |
早速、林氏が各方面に問い合わせ、弟子の坪井宗也(本名=坪井正)師から欄間の作者である |
板倉聖峯師の名前を探し当てたのであった。そして、屋台欄間が葛飾の博物館で全国に紹介され |
るという栄誉で、町内会長名での感謝状を板倉師に贈呈することにしたようである。板倉家を |
訪問した後の林氏の話では、作品もさることながら師の人柄にすっかり魅了されたようで |
あった。そして持参した屋台彫刻の写真を見て、はっきりと昭和9年に制作した師の作品に |
間違いないという証言を得たのである。 |
明治39年1月28日、神奈川県湯河原町で生をうけた板倉聖峯(本名=板倉茂三郎)師は |
まもなく百歳になられる。そこで何とか師の功績に報いるため公に顕彰してほしいと、市会 |
議員を務めておられた勝亦正人氏から議会に上程していただく。やがて翌年の平成18年1月 |
28日満百歳を迎えられた板倉師のもとに富士市長がお祝いに訪問されることになり、また |
永年の功績に対して顕彰されたのであった。実は、林氏が訪問された後で師は病に倒れ入院 |
していたのであるが、この日には外泊の許可が出されて帰宅していたのだ。午前中の市長訪問 |
の後、林氏に連れられて初めて板倉家を訪問することになったが、師の容態はあまり芳しく |
なくほとんど言葉が聞き取れない。こちらの言っていることは理解されているようだが、師の |
言葉はご子息である慎治氏を介してしか伝わらなかった。それから半年も経たない内に師は |
その生涯を閉じられたのである。享年百一歳にて平成十八年六月三十日のことであった。 |
もっと早くに勝亦議員と林氏が訪問された時に随行していれば、と悔やむが仕方がなかった。 |
板倉聖峯師には5人のご子息がおられた。現在まで本市場で同居されていた方は五男の慎治氏で |
ある。葬儀が終わり遺品の中から「仕事日記」と書かれたノートが数冊でてきたということで、 |
慎治氏より富士市教育委員会文化振興課へと手渡されたのであった。後日、林氏と文化振興課を |
訪れ「仕事日記」のコピーをいただく。A3版の紙に2ページずつコピーされた「仕事日記」は |
昭和3年1月から昭和48年5月までびっしりと記されており、その数は百枚以上にも及ぶもの |
である。内容はいつどこの仕事で何を彫ったということぐらいの全く簡潔な記述ではあるが、 |
中にはぽつりぽつりと行間に世相に対する批判めいたことも語られている。昭和19年3月いよ |
いよ太平洋戦争もかなり厳しくなってきた頃には、工場への徴用を受け横浜に赴任することに |
なったらしい。この間、終戦まで約1年間の工場勤務での独り言が綴られていて興味深いもの |
がある。 |
これだけの資料を前に先ずはこの「仕事日記」を熟読し師の作品の仕分けをしなければならない |
と思った。そして、これだけ多くの作品を生み出した師の業績を追い、公の評価を得ることだけ |
考え始めてきたのである。師の書かれた内容を読めば読むほど、すべてにおいて自分が全く素人 |
であることに気づき、神社・寺院・宗教・建築・彫刻等々用語の知識から学ばなければならない |
ことを知った。 |
とりあえず「仕事日記」の仕分けに入る。所々感情をぶつけたような走り書きも出てきて解読 |
するのに非常に苦労する。地域別に大きく富士市内、富士市以外の静岡県内、静岡県外と分け、 |
さらに神社・寺院と分けてみた。他には山車・屋台彫刻がある。さらに社寺・山車に分類でき |
ないものに建具店・葬具店からの仕事がある。それ以外は個人の置物や幟枠などである。作品 |
を仕分けしたのは、現存している作品を撮影に訪問するのに都合がいいからであって、全体の |
仕事の流れは第六章に添付したように年表にした方がわかりやすいかもしれない。 |
写真についても特に知識があるわけでもなく、今まではただ観光地での記念撮影ぐらいでしか |
ない。家にあったデジタルのポケットカメラを持って撮影に出かけることにした。まずは富士 |
市内の神社から。始めた頃は何もわからずただ「仕事日記」に記載された神社を訪ねて闇雲に |
彫刻を撮影していた。しかしながら帰宅してデータを取り込み映し出すと、全くイメージして |
たものとは違い再度撮影に赴かなければならなかった。こんなことを何度かやっているうちに |
1年が過ぎてしまった。ポケットカメラでは折角の作品がうまく表現できず、アマチュアでも |
使いこなせるデジタルの一眼レフカメラを購入する。同時にズームレンズも。さあ、こうなる |
と脚立も必要か。5段の脚立も購入して愛車に積み込んで出発。以前撮影した神社を再び撮影 |
に訪問する。結局3年間で撮影した社寺は112ヵ所、山車・屋台を含めて計124ヵ所を |
訪問し、5000枚を超える枚数の写真データになってしまった。 |
さて、作品を追い続けた3年間が過ぎ、はや4年目にはいった時、図録にまとめようとする。 |
板倉作品ですばらしい表現はやはり龍の顔であろう。そこでまず第1章に社寺彫刻の代表的な |
題材になっている「龍」にスポットをあて、民俗学者諸先生の論文等を引用し社寺彫刻における |
「龍」というものについて考えてみた。第2章では板倉作品における「龍」の顔を現存して |
いる社寺・山車の上で表してみた。師は納得のいく作品には銘を入れてあると聞き、刻銘の |
あるものと棟札に名前のあるもの、それから確実な証言のあるものを確定分とし、師の記述 |
のみのものを推定分として分けてある。さらに第3章において、近郊において名をはせた名彫刻 |
師による「龍」の顔を何点か撮影した。それぞれの顔に特徴があり師の「龍」と比較してみたい |
と思う。第4章は板倉作品の中で「龍」以外の秀逸な作品も数知れない。その内で何点かを |
紹介したいと思い選んでみた。獅子や牡丹の大輪など見応えがあると思う。第2章と第4章では |
撮影地の社寺について調べてみた。その社寺情報も付け加えたいと思う。第5章において、これ |
までの撮影してきた3年間に感じたこと、寺院を訪問し本当にご親切に案内していただいた住職 |
の話など、あくまでも自分流に随想録として綴ってみた。社寺彫刻というのは、そのほとんどが |
風雨にさらされたり炎天下で照らされたり、非常に過酷な環境の中に作品が置かれている。 |
文化財として指定をされればそれなりの保護がされようが、歴史的・美術的な評価がされて |
いない隠れた文化財が板倉作品を始め数多く存在する。このような人の目にも気づかれないよう |
な文化財に少しでもスポットをあててあげたい。何度も言うようだが、すべてにおいて全く |
初めての経験となったこの編集において、あくまでも板倉師の「龍に惹かれて」、拙いながらも |
写真と文章にて師の作品が後世に残ればという気持ちのみでまとめいてみたものである。 |
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