寺 院
富士市内 |
本堂向拝蟇股 「龍」 |
1,中里 龍泉山 東光寺 |
<所在地> 富士市中里1249 |
<宗 派> 日蓮宗 |
<本 尊> 一塔両尊四士 祖師像 |
<堂 宇> 本堂 昭和15年再建 |
<由 緒> 永仁元年(1293)の頃、須津庄の領主冷泉中将隆茂が以前からあった東光坊という真言宗の寺を |
日蓮宗に改宗すると共に、その寺号を東光寺と改め実相寺の日源上人を招聘して開山とした。天文 |
5年(1536)今川義元から境内地の安堵状を受けるが、永禄12年(1569)武田信玄によって火を |
かけられ諸堂宇を焼失する。以後、度重なる火災、再建を繰り返し明治に至る。明治初期の廃仏毀釈 |
により末寺10ヶ寺有していたが、4ヶ寺を残して廃寺となる。その後は明治10年、昭和13年と又火災 |
に遭い本堂・庫裏・宝蔵などことごとく失ってしまった。現在の堂宇は昭和15年本堂再建、鎮守堂は |
昭和28年、庫裏・鐘楼は昭和47年に再建されたものである。 |
<彫刻詳細>本堂向拝 蟇股「龍」 木鼻「獅子」「象」 虹梁 入口虹梁「菊花」 繋虹梁 向拝虹梁裏「若葉」 |
妻部分 懸魚 六葉 鰭 虹梁「若葉」 |
本堂内 内陣虹梁「蓮花」「若葉」 外陣虹梁「浪」「若葉」 須弥壇欄間正面「牡丹に獅子」 |
須弥壇欄間左右「牡丹」 |
刻銘 相模國 湯ヶ原出身 現住 富士郡富士町 彫刻師 板倉 聖峯 作之 |
昭和十五年七月 |
本堂須弥壇欄間 「牡丹に獅子」 |
富士市中里の根方街道沿いに山門と題目塔が建ち、参道を北へ100m程入ったところに本堂が建立されている。境内は |
広く左手に末寺である本妙寺の境内に続いている。 |
本堂右手にある庫裏を訪ねると住職に快く応対していただいた。本堂内にご案内いただき拝観する。外陣虹梁の浪、内陣 |
虹梁は正面が蓮花で左右に若葉と本堂内虹梁にはすべて彫刻されていた。 |
ここで須弥壇について尋ねると彩色された須弥壇の欄間も師の作品であるということで、わざわざ取り外してくださり撮影 |
させていただく。左右の大輪の牡丹。正面2枚は牡丹に獅子である。正面右は籠毬の緒をくわえた図、左は牡丹の大輪の |
間に親子連れの獅子が鮮やかに浮き上がっている。師の日記から東光寺の先代(現31世上人の父)とはかなりの昵懇 |
の間柄だったようで、本堂建築の宮大工棟梁は鈴木多吉だが彫刻一切については板倉師に任されたという。昭和15年 |
1月よりおよそ1年もの間、本市場から通い又、泊まりこんで制作したようである。 |
ご本尊に一礼をして玄関から向拝に出て撮影。向拝虹梁と入口虹梁の菊花が見事だ。横に長く伸びた蔓状の上に切れ |
味が鋭く深いためなのか、花弁がきれいに1枚ずつ浮き上がって見えるのだ。裏側の若葉も大胆に、そして繋虹梁の浪と |
雲は繊細に表現され、木鼻には正面を向いた獅子と左右に象鼻である。 |
しかし何といっても向拝で目を奪われるものは蟇股の龍であった。構図はよくある蒲原諏訪神社タイプの右向きだが、彫り |
の丁寧さには目を見張るものがある。龍は9種類の動物に似るといわれていて、それぞれ頭や顔、項や胴をとっても本当 |
に細密に描写されているのだ。左右にうねらせた胴体など1枚1枚の鱗が光るようで丸彫りのようにも思える。この威風堂々 |
とした龍も師の傑作のひとつではないだろうか。 |
山門 持送り 「龍」 |
2,今泉 成就山 本国寺 |
<所在地> 富士市今泉1−1−1 |
<宗 派> 日蓮宗 |
<本 尊> 十界大曼荼羅 日蓮大聖人御尊像 |
<堂 宇> 本堂 大正11年4月再建 |
<由 緒> 開創は大永5年(1525)の10月、北山本門寺第7世の日国上人によると伝えられている。寛政3年 |
(1791)に客殿の修理、鐘楼の建立を行ったが、安政大地震で堂宇はことごとく倒壊してしまった。 |
それから後の復興は当時の日啓上人から次の日仁上人に引き継がれようやく堂宇再建、境内の |
整備がなされた。現在の本堂は大正12年(1923)日良上人の代に建立されたものである。 |
<彫刻詳細>山門正面 欄間右「小松原の法難」 欄間左「立教開宗」 持送り「龍」 |
山門妻部分 大瓶束 鰭 虹梁「若葉」 蟇股「浪に千鳥」 拳鼻「若葉」 |
本堂内 太鼓の字 |
富士市今泉地区の根方街道入口の北、旧東泉院のあった日吉神社の下に建立されている。本堂再建は大正11年4月に |
棟梁鈴木多吉、彫刻師伊藤高芳の手によってのものである。 |
板倉師は本堂落成後の昭和初期に山門を建築した際に彫刻を残している。師の日記には昭和4年4月から6月となって |
おり、はっきりとした記録は不明であるがおそらくその頃であろう。 |
山門をくぐり見上げると欄間が2枚、右は小松原の法難であろうか、左は立教開宗だと思われる。日蓮宗の古刹らしい |
図案である。左右の妻飾りは虹梁に若葉、大瓶束と鰭、虹梁間の蟇股には内外両側にそれぞれ浪の中で戯れる数羽の |
千鳥が描かれている。 |
さて山門外側を見てみると両側の柱に持送りが付いている。これを見逃してはならない。それぞれ一対の龍が透かし彫り |
されている。わずか1尺か1尺5寸程度のものではあるが、角の先端から尾の端まできっちりと彫られているのはいかにも |
師の仕事らしい。雲状曲線の持送りの中で天空に向かって駆け上がっている様相だ。この他日記の記述によると昭和15年 |
10月の太鼓の字とあり、皇紀2600年を記念して寄進された太鼓に11名の帰還兵の名前が刻まれていた。 |
山門 後部虹梁 「蓮花」 |
3,神戸 富?山 常願寺 |
<所在地> 富士市神戸642 |
<宗 派> 浄土真宗 |
<本 尊> 阿弥陀如来 |
<堂 宇> 本堂 昭和8年再建 山門 昭和28年建立 |
<由 緒> 寺の記録によると元和元年(1615)、山梨県富士吉田市新倉にある浄土真宗如来寺の願了法師が |
富士市富士岡入町の赤渕川東岸に一宇を開創し寺号を常願寺としたのが始まりといわれている。 |
その後記録は全く残されていないが、赤渕川の氾濫などにより天和3年(1683)第3代住職了秀 |
法師が現在地に移転したらしい。現在の本堂は昭和8年に建立、山門は昭和28年に建てられた |
ものである。 |
<彫刻詳細>山門後部 蟇股「雲に天女」 虹梁「蓮花」 虹梁裏「若葉」 拳鼻「若葉」 |
山門妻部分外側 懸魚 六葉 鰭 桁隠し「雲」 二重虹梁「若葉」 大瓶束 鰭 蟇股 |
山門妻部分内側 二重虹梁「若葉」 大瓶束 鰭 蟇股 |
刻銘 富士町本市場 彫刻師 板倉 聖峯 作之 昭和二十八年十二月吉日 |
富士市神戸は富士市街地から北へ県道24号を十里木方面に上って神戸小学校西側に建立されている。本堂は昭和8年 |
に再建され山門は昭和28年建築となっている。師の日記には昭和28年分が抜け落ちているので記述としてはないのだが |
「駿河18号」に掲載された鈴木富男氏の調査から訪問してみることにした。 |
寄棟造の本堂は向拝部が広くどっしりとした感がある。蟇股の龍はその構図・表情から伊藤師匠の作風に近いように思える。 |
実際、岩本実相寺釈迦堂の龍に非常に似ているように思う。ただ銘もなく裏側も彫られていない。木鼻の獅子にしてもやや |
扁平な感が否めない。住職の話では、近年本堂の修復をお願いしたのは大工の伊藤さんという方だと言われる。偶然同姓 |
なのか、伊藤師匠の親戚の方なのか。何か同姓というだけで因縁めいたものを感じてしまうのは考えすぎだろうか。 |
振り返って山門を見ると、正面虹梁上には山号額が掛かり、後方の虹梁蟇股の裏に刻銘が見えた。すぐさま脚立に上り |
埃を手で払うと、まさしく「板倉聖峯」の字が浮かび上がったのである。脚立を降り1点1点確認していく。左右の妻飾り、虹梁、 |
拳鼻等々見ていく中で一際目に付いたのが虹梁に浮き彫りされた蓮花であった。水面に広げた蓮の葉の中から開花し |
かかっている蕾が初々しい。水の流れと葉の位置、細く伸びた首の上に花弁を開きかけた蕾が立体的に見えてくるのだ。 |
この山門彫刻のメインは蟇股の雲中に舞う天女だと思われるが、なぜか天女より蓮花に惹かれてしまった。銘によると |
昭和28年12月というから師が47才、年が明けると48才の時の作品である。 |
本堂向拝 蟇股 「親子龍」 |
4,本市場 蓮寿山 常諦寺 |
<所在地> 富士市本市場84 |
<宗 派> 日蓮宗 |
<本 尊> 一塔両尊四士 祖師像 |
<堂 宇> 本堂 昭和11年7月再建 山門 昭和61年建立 |
<由 緒> 身延久遠寺末で弘安4年(1281)創建。本市場の郷士であった高橋六郎入道は日蓮宗の大檀越で |
あったので、日蓮聖人の還暦を祝って自らの家屋敷を全て寺とし、山号は宗祖日蓮聖人の天寿を |
賀するという意味で蓮寿山とした。また、入道夫妻は日蓮聖人からそれぞれ妙常・妙諦の法号を授け |
られたので寺号は1字ずつとり常諦寺とした。入道夫人は日興上人とは叔母甥の関係から門下の |
日弁上人を迎えて開山とする。 |
<彫刻詳細>本堂向拝 蟇股「親子龍」 木鼻「振向獅子」 虹梁「菊花」 |
繋虹梁 入口虹梁 向拝虹梁裏「若葉」 |
本堂内 内陣欄間「伊豆の法難」「龍口の法難」「小松原の法難」 内陣虹梁「浪」 |
向拝刻銘 相模國 湯ヶ原出身 現住 富士郡 富士町 彫刻師 板倉 聖峯 作之 |
昭和拾壱年七月吉日 |
欄間刻銘 相模國 湯ヶ原出身 現住 富士町本市場 彫刻師 板倉 聖峯 作之 |
昭和十二年三月吉日 |
富士市本市場で板倉家から旧国道1号を挟んだ北側に建立されている。目安としては米之宮浅間神社の南側である。 |
撮影日前に訪問した際、週末には法事が多いため平日での撮影ということで許可を得る。後日電話をいれて住職の |
応諾を得てから撮影に向かう。 |
山門と西側に建つ日朝堂はその銘により師の弟子である坪井宗也師の作だとわかる。山門は昭和61年、日朝堂は |
平成12年建立ということだ。さて本堂は昭和11年7月の建築であり、師の日記による昭和11年2月から7月にかけて |
という記述と一致する。 |
向拝蟇股の龍を見てみると、珠を間にして親子が対面している構図だ。右側の親龍は代表的な右向きの図案で、後に |
制作する蒲原諏訪神社や中里東光寺など近いタイプである。この常諦寺には先程記したように山門と日朝堂に坪井 |
師の龍があり比較してみたい。坪井師の作品は全体にバランスがとれ美しい印象を与える。龍顔も伊藤師匠と同様、 |
下顎の長いどちらかといえば柔和な顔つきだ。板倉師の龍は昭和10年以前には同じような顔つきで作られているが、 |
やがてバランスより迫力、時には凄みさえ感じられるようになってくる。 |
向拝柱の振向獅子であるが、右側は籠毬の緒をくわえるいつもの図案だが、左側の獅子には牡丹の枝ではなく子の |
獅子が顔の前に付いている。獅子の子落しであろうか珍しい図案だ。向拝虹梁の菊をとっても彫りが深く菊花が浮き |
上がって見える。 |
庫裏より本堂内の撮影も許可をいただき、外陣内陣の欄間を撮影。内陣欄間は3枚表裏とあり、右から「伊豆の法難」 |
「龍口の法難」「小松原の法難」と裏側にもしっかりとそれに合う背景が彫られている。また、中央の欄間の裏には銘も |
刻まれていて、翌年昭和12年3月に制作されたものだとわかる。これは日蓮宗寺院によくある日蓮聖人の伝記の内の |
有名な3法難を表していて、下で欄間を支える虹梁の浪とともに人々の目を引くものである。 |
位牌堂 欄間 「雲に鶴」 |
5,木島 普門山 松雲寺 |
<所在地> 富士市木島679 |
<宗 派> 曹洞宗 |
<本 尊> 十一面観世音菩薩 |
<堂 宇> 不明 |
<由 緒> 当時の富士川渡船の主な渡船場所は蒲原吹上付近から対岸の田子の浦川成島付近と木島尼ヶ渕 |
付近から富士郡岩本への2つがあったが、永徳3年(1560)松岩長は小山尼ヶ渕の渡船鎮護のため |
松雲寺を創立した。松雲寺の開創時代のことは不明であるが、岩本の永源寺の庇護があったであろう |
ことは元禄13年(1700)永源寺11世の霊明韻英がここに住山し、開山となり法地格としたことからも |
推測される。 |
<彫刻詳細>本堂向拝 木鼻「振向獅子」 虹梁「浪にウサギ」 海老虹梁 入口虹梁「若葉」 |
手挟「雲に鶴」「浪に亀」 |
本堂内 内陣欄間「牡丹に獅子」 内陣虹梁「松」 外陣虹梁「若葉」 |
位牌堂欄間「松に鶴」「雲に鶴」「浪に鶴」 位牌堂虹梁「若葉」 |
内陣欄間刻銘 昭和四拾四己酉年壹月吉日 當山十八?大忍佳則代新添 富士市本市場 |
彫刻師 板倉 聖峯 之作 |
富士市木島は旧国道1号(県道396号)の富士川橋西岸から北へ堤防沿いに行くと左手に建立されている。初回訪問時は |
不在であったため外観のみ撮影して次回を期す。 |
約8ヶ月後に再訪問するが、やはり住職不在で奥様に応対していただいた。但し本堂建築年不明、向拝彫刻の作者も不明 |
で本堂・位牌堂内部の撮影の許可をいただくだけである。庫裏玄関より本堂に通された時、内陣欄間の大きな作品が目に |
飛び込んできた。外陣から内陣に入る上に3枚ずつ表裏とも6枚の欄間である。内陣ゆえ裏側は暗く銘が刻まれているよう |
ようだがよく見えない。カメラのフラッシュだけを頼りに見上げながら何回かシャッターをきった。後で見るとまさしく昭和44年 |
1月の板倉聖峯之作とある。師の日記にある昭和43年11月からの仕事「欄間の牡丹に獅子」がこれである。それぞれ3枚 |
とも大胆な構図で大輪の牡丹と1頭ずつの獅子が描かれていた。 |
次に本堂奥の位牌堂に案内され、三方を位牌に囲まれた正面に3枚の欄間がはめ込まれているのを見る。右から「松に鶴」 |
「雲に鶴」「浪に鶴」とどれをとっても精密な透かし彫りである。本堂・位牌堂とも建築年月が不明で確証がないが、日記の |
記述に昭和42年2月から9月にかけて「欄間の雲に鶴」とあるのは位牌堂欄間のことか。 |
本堂に戻り向拝の彫刻を見る。木鼻には振向獅子があり作風は師の作品に近い印象を与える。虹梁には浪にウサギだ。 |
ただ海老虹梁の若葉など師のものにしては彫りに物足りなさを感じる。手挟の「雲に鶴」「浪に亀」は昭和8年7月の記述に |
あるが、これも建築年からの検証ができないため推定にすぎない。 |