静岡県外
山門 蟇股 「龍」 |
1,山梨南部 正住山 内船寺 |
<所在地> 山梨県南巨摩郡南部町3599 |
<宗 派> 日蓮宗 |
<本 尊> 十界曼荼羅御本尊 |
<堂 宇> 本堂 明治元年再建 山門 昭和6年建立 |
<由 緒> 宗祖日蓮聖人外護の大檀越、四条金吾頼基夫妻によってその基を開かれた寺院である。頼基はもと禅宗 |
信者であったが、鎌倉で日蓮聖人と結縁し建治3年(1277)4月自邸内に三間四面の持仏堂を建立し、 |
当山2世の正住坊日遊を屈請して日々看経を勤め弘安8年(1285)正月をもって寺とした。古くは四条山 |
正住坊と称したと伝えられるが、寛政年間に火災の難を縁として現山号及び寺号に改めたようである。 |
<彫刻詳細>山門正面 唐破風懸魚「鳳凰」 桁隠し「桐」 中備琵琶板「雲に鶴」 蟇股「龍」 |
虹梁内側前「浪」 虹梁内側裏「若葉」 拳鼻 肘木「若葉」 |
妻部分 懸魚 六葉 鰭「雲」 大瓶束 鰭「雲に浪」 虹梁「若葉」 |
扉「三階松」 |
山門脇 袖「橘の紋」 |
位牌堂 蟇股 拳鼻 虹梁「若葉」 |
庫裏 棚の上「虎の置物」 |
山門の刻銘 昭和六辛未年 相п@ 大磯町 彫工 板倉 聖芳 作之 二十六才 |
山門 唐破風懸魚 「鳳凰」 |
山梨県南部町の中心部で富士川左岸を通るJR身延線、内船駅北側の斜面に建立されている。初回訪問時には、斜面の下 |
からコンクリート製の冠木門をくぐり急で長い石段を登っていった。この時には寺院全体を眺め、本堂向拝裏と山門の銘が |
あることを確認して帰る。 |
約2年後本格的に脚立持参で撮影に訪問。朝早く出発し9時半過ぎに到着するが、11時から法事が1組入っており住職は |
大変多忙をきわめていた。そのような折に訪問した用件を話すと、時間を割いて本堂・庫裏と案内説明していただけた。突然 |
のお願いにもかかわらず、非常に親切丁寧な応対に本当に申し訳なく恐縮しきりである。 |
境内は急な石段の参道を登り山門をくぐると、右側に鐘楼が左側に庫裏が見える。庫裏から廊下で鐘楼前の本堂につな |
がっている。本堂は先の訪問時に確認した通り小澤半兵衛親子によるものだが、すばらしいと思われる彫刻は防護の網に |
覆われ観察することができない。大変残念だがわずかに見える刻銘から半兵衛と徳蔵の文字が判別できた。制作年は |
推定で明治元年であろうと言われている。 |
本堂の奥の位牌堂については、昭和29年本堂改修に続き位牌堂を建てた折に虹梁と蟇股を師に依頼したそうである。本堂 |
から庫裏に戻り奥の座敷に飾られた虎の置物を拝見。昭和6年6月に制作されたことになっている作品なのか。 |
時間もたちお礼を述べてから山門撮影の許可を得て外に出る。法事の檀家さんたちがちょうど集まり始めていた。11時から |
なので始まるまでしばらく待機。静かな境内に読経の声が響く頃、おもむろに車から脚立を取り出し山門前に据える。山門は |
昭和6年建築時のまま残っているが、昭和29年に山門脇に袖をつけ、橘の紋を入れたのも板倉師に依頼したようだ。 |
さて、山門建立の昭和6年というと伊藤師匠から独立してすぐの仕事ではないだろうか。かなりの力作だ。唐破風懸魚の鳳凰 |
が正面に翼を広げ、山号額奥の琵琶板には雲の中で4羽の鶴が列をなす。下の虹梁には浪が逆巻き、蟇股の龍が眼光 |
鋭く威圧感たっぷりだ。龍の顔はこの頃までは伊藤師匠の特徴を受け継ぎ、やや下顎が長く前に突き出したような顔つき |
であるが、昭和10年代になると板倉師独自のバランスの取れた顔かたちになってくるように思える。 |
この他山門の装飾は、虹梁の若葉・肘木の渦・懸魚・六葉・鰭の雲・扉に彫られた三階松と非常に豊富である。蟇股裏の |
刻銘は5段の脚立に乗ってやっと確認できた。昭和6年大磯町板倉聖芳二十六才とある。師の作品で銘が登場するのは |
この昭和6年3月頃からであり、聖峯の「峯」が「芳」の字になっている。これはおそらく伊藤師匠の弟子に「芳」の字が皆 |
ついており、板倉師も当時は「聖芳」と名乗っていたのではないだろうか。26才というのも当然この時代の人は満年齢では |
ない。ただ大磯町と記されたものは内船寺1ヶ所である。昭和10年以降出てくる銘は、ほとんどが相模國湯ヶ原出身となって |
いるが、大磯町としたのは何かわけがあるのだろうか。いずれにしてもこの内船寺山門は師の初期の作品での傑作であろう。 |
本堂 欄間 「立教開宗」 |
2,神奈川海老名 本興山 常在寺 |
<所在地> 神奈川県海老名市社家3746 |
<宗 派> 日蓮宗 |
<本 尊> 宗祖大聖人御本尊 |
<堂 宇> 本堂 昭和55年再建 |
<由 緒> 正和年間(1312〜1317)に宗祖の孫弟子日乗上人により鎌倉の小町に開創される。元弘3年5月 |
新田義貞の軍勢により本尊数幅と祖師像を除いて焼失したが、日叡上人によって応永4年(1397) |
復興された。しかし、この時代は戦乱の世にあって荒廃するときが続き寺名を残すだけになっていた。 |
大永3年(1523)北山本門寺の僧日在上人が大島三郎・北条氏の資援を得て鎌倉から現在地(相模 |
社家)に移しそれ以来本門寺の末寺となる。 |
<彫刻詳細>本堂内 欄間「お誕生」 「御本尊最初佛」 「比叡山遊学」 「立教開宗」 「初転法輪」 「伊豆流罪」 |
「伊豆法難」 「小松原の法難」 「龍口の法難」 「星降の梅」 「塚原三昧堂」 |
「七面大明神岩屋」 「最後の法話」 「ご入滅」 |
刻銘 静岡県富士市本市場在住 彫刻師 板倉 聖峯 七十九才 作之 |
昭和五十九甲子年二月吉日 |
神奈川県海老名市社家に建立されている。国道246号の伊勢原から東に入り相模川を渡って県道46号を北に進む。左手に |
JR相模線の社家駅があり東名高速の下をくぐったところが常在寺だが、山門はぐるっと回った西側であった。 |
山門周りの参道や境内はきれいに掃き清められて大変清々しく風情すら感じられる。向拝彫刻に迎えられるが師のものでは |
ないことを確認。日記には昭和14年から17年にかけて、度々社家の常在寺という言葉が出てくるが、本堂向拝についての |
記述は全くない。早速庫裏のチャイムを鳴らし住職を訪ねて事の次第を説明する。時間的に丁度昼時になってしまったにも |
かかわらず、板倉師の名前を出すと快く応対していただけた。 |
先代住職は現住職の兄であるが、昭和57年に東京法輪寺に移ったとのこと。その折に現住職が兄に呼ばれて31世住職に |
就かれたようである。その前のご両親が、実は今泉本国寺の先代住職と兄弟弟子らしく、もちろん本国寺現住職もよくご存知 |
であった。その縁から板倉師と知り合いになり、ご両親は師のファンであったということなど話は尽きない。 |
やがて本題に入り日記の記述にある「日蓮様」「日連様の台座」とあるのは、厨子と前机を師に依頼したことらしい。しかも |
東京法輪寺のものを、こちらで注文して東京へと納めるようにしたということである。 |
常在寺は昭和56年2月に本堂再建の落慶が行われるが、本堂内虹梁の上の空いている部分に欄間をと檀家衆より話が |
あり板倉師を指名。3年後に日蓮聖人の伝記を外陣・脇陣にはめる欄間16枚が完成する。外陣正面表裏4枚、脇陣左右 |
表裏で8枚と脇陣奥に左右2枚ずつである。日蓮聖人のお誕生から立教開宗、三法難から最後の池上でのご入滅まで |
本堂内が一大ストーリーとなっているのだ。住職の話では右端の「龍口の法難」について表裏同じものをはめたが、何か |
不満で表裏が違う場面を、ぴったり合うような透かし彫りで工夫して制作していたと言う。話を伺い改めて表裏を見比べて |
その巧妙さに感じ入る。 |
師が泊り込みで制作中に食事を出すと、自分の食べる分だけ皿に箸をつけ、他には決して箸をつけるようなことはしなかった。 |
食べ残しはせず箸をつけなかったからといってお返ししたらしい。こんなエピソードも聞かれた。誠に礼儀正しい几帳面な |
ところが見受けられる。 |
本堂 唐破風懸魚 「鳳凰」 |
3,東京大森 海光山 密乗院 |
<所在地> 東京都大田区大森中2−17−5 |
<宗 派> 真言宗智山派 |
<本 尊> 不動明王 |
<堂 宇> 本堂 昭和32年3月再建 |
<由 緒> 創建から800余年経った正中年間(1324〜1326)に真栄大阿闍梨が弘法大師作の不動明王を |
安置して本尊とした。江戸期には徳川家康から武運長久を願い朱印20石を賜った。しかし、天明年間の |
火災により本堂は焼失した。その後天保4年に再建され明治期には大森の神社14社を管理していた |
ようである。 |
<彫刻詳細>本堂向拝 蟇股「龍」 木鼻「真向獅子」「象」 向拝虹梁「浪に千鳥」 唐破風懸魚「鳳凰」 |
二重虹梁上段 海老虹梁 入口虹梁 手挟 拳鼻 向拝虹梁裏「若葉」 中備「甕割の図」 |
妻部分 懸魚 六葉 鰭 蟇股 虹梁 拳鼻「若葉」 |
本堂内 脇陣欄間「雲に天女」 外陣欄間「四比丘奉鉢の図」 外陣虹梁「蓮花」 |
須弥壇欄間「龍」「浪」 |
向拝刻銘 静岡県富士市本市場 設計施工者 彫刻師 板倉 聖峯 昭和32年3月吉日 |
東京都大田区大森は国道131号(産業道路)を挟んで三輪厳嶋神社の西側に建立されている。京浜急行線梅屋敷駅から |
羽田方向に下町情緒のある町を歩く。国道に出る手前を右に折れたところに密乗院はあった。日記に師の記述はなく須弥壇の |
寸法書が残るだけである。 |
とりあえず本堂向拝の銘を探してから庫裏のチャイムを押す。丁寧な応対に出られた住職は自分と同世代くらいと思われた。 |
当寺の檀家と弁天神社(三輪厳嶋神社)の氏子と重なる人が多いので、神社を建築した後に板倉師に依頼したという。住職が |
小学生の頃で棟梁や職人が泊まりこみで仕事をしていたのを覚えているということであった。密乗院は昭和32年に再築され |
昭和33年に落成式を行っている。 |
先程確認した向拝の彫刻を見てみよう。本瓦葺の屋根に銅板葺の軒唐破風が付いて懸魚には鳳凰が羽ばたく。その奥に |
目をやると中備は大瓶束を甕にした司馬温公「甕割りの図」で二重虹梁上段は若葉、下段は浪に千鳥が彫られている。木鼻は |
左右に真向獅子と象鼻があり、中央の蟇股には蒲原光蓮寺タイプの龍がどっしりと構えている。刻銘に今までなかった彫刻師 |
という他に設計施工者の文字が刻んであって、昭和32年本堂再築の時かなりの部分に師のデザインが入っていたものと |
思われる。ただ残念なことに日記の記述がなく、どこまでなのかは確証がない。 |
さて説明を受けながらも本堂内に案内していただく。内陣を取り囲むように大きめの欄間数枚が目立っていた。脇陣正面には |
雲の中で優雅に楽器を奏で舞い踊る天女の構図、そして本堂正面には3枚に分かれた構図の欄間が飾られていて、住職の |
説明を受けると「四比丘奉鉢の図」というのだそうだ。左右の2枚はそれぞれ2人ずつの比丘が横向きに鉢を捧げている様子、 |
中央には釈迦如来が4つの鉢をまとめた鉢を左手に乗せている。 |
欄間をはじめ仏像や人物像を見ると、素人で大変僭越ながら板倉師の人物像にはあまり心が惹かれないように思う。やはり |
龍と獅子においては300年余り続いている社寺彫刻で、名工といわれた彫刻師に決して引けはとらない作品だと言えるのでは |
ないだろうか。帰り際住職に近くの檀家で板倉家とご親戚の方がおられて、師の作品である十一面観音像があるので紹介を |
と言われたが、帰宅の時間が迫っていたので残念ながら遠慮させていただいた。おそらく昨年板倉家訪問時に拝見した十一面 |
観音像と同体のものだと思われる。それは1尺2寸の観音立像で下彫りした1体を板倉家の守護佛として置いてあったそうだ。 |
本堂向拝 蟇股 「二匹龍」 |
4,東京早稲田 萬年山 法輪寺 |
<所在地> 東京都新宿区西早稲田1−1−15 |
<宗 派> 日蓮宗 |
<本 尊> 一天四海皆帰妙法頌加由来危難除鉄砲曼荼羅 |
<堂 宇> 本堂 昭和35年10月再建 山門 昭和43年10月建立 |
<由 緒> 慶長11年に開山開基長応阿闍梨日賢上人により、富士派の北山本門寺関東布令頭江戸祈祷所として |
創立される。寛永11年江戸城城郭を整える市ヶ谷外濠用地作りのため牛込中里町へ、さらに寛文2年 |
鎧兜拝領の時御刀作りのため現在地へ移転した。昭和20年戦火で焼失し昭和35年より逐次復興再建 |
される。 |
<彫刻詳細>本堂向拝 蟇股「二匹龍」 木鼻「振向獅子」 向拝虹梁「菊花」 |
海老虹梁 手挟 入口虹梁 向拝虹梁裏「若葉」 |
本堂内 内陣虹梁 外陣虹梁「若葉」 内陣欄間右「雲に天女」 内陣欄間中「雲」 |
内陣欄間左「雲に松」 外陣欄間右端「伊豆の法難」 外陣欄間右内「熱原の法難」 |
外陣欄間右内右「伊豆流罪」 外陣欄間右内左「初転法輪」 外陣欄間左端「星降の梅」 |
外陣欄間左内「立教開宗」 外陣欄間左内右「お誕生」 外陣欄間左内左「最後の法話」 |
内陣右小脇「上り龍」 内陣左小脇「下り龍」 厨子上欄間「龍」 厨子前机「雲」 |
厨子「鶴丸」 「牡丹」 「獅子」 |
庫裏 欄間右「松に鶴」 欄間左「牡丹に獅子の子落し」 会議室欄間「牡丹に獅子」 |
山門 蟇股前「若葉に鶴丸」 蟇股後「左三つ巴」 虹梁「若葉」 山号額 扉「鶴丸」 |
塀の欄間右脇右「雲に朝日」 塀の欄間右脇中「松に鶴」 塀の欄間右脇左「雲に鶴」 |
塀の欄間左脇右「牡丹に獅子」 塀の欄間左脇左「獅子の子落し」 |
塀の欄間通用口「牡丹」 |
手水舎 蟇股 虹梁 拳鼻「若葉」 |
向拝刻銘 第二十六世 海野智舜 寄附者 森田 寛 昭和三十四年己亥年六月吉日 |
静岡県富士市本市場 彫刻師 板倉 聖峯 之作 |
庫裏の欄間 「牡丹に獅子」 |
東京都新宿区早稲田の馬場下交差点すぐ北側に建立されている。常在寺から話を聞いたこともあり、前もって住職への面会を |
電話で依頼する。地下鉄東西線早稲田駅を降りて馬場下町交差点に向かうが、すぐ隣が大学のキャンパスである。もう35年 |
程にもなろうか、この辺りを歩いていたのが思い出される。学生当時には全く関心がなかったため、法輪寺は今その存在を |
知ったというくらいである。 |
山門をくぐり庫裏に向かう。仕事中であった住職に無理を申し上げて板倉師のことについて話をうかがった。本堂は檀家衆より |
昭和28年から29年頃に話が出て、戦災で焼失した後の仮本堂から再築を願い昭和33年に着工昭和35年に落成した。当時 |
の住職は着工後に亡くなられた25世の現住職の父の代である。実は工事契約後に材木の価格が急騰し、大工の棟梁も |
変わり費用が当初の見積より1.5倍近くもかかってしまったとのことである。 |
本堂向拝は虹梁の菊、海老虹梁・手挟の若葉、木鼻には右に籠毬を左に牡丹をくわえた獅子があり、蟇股には富士宮代立寺 |
や今泉十王子神社タイプの親子龍である。この頃は師の年令も53才と作品にもすっかり円熟味を増したものが表れている。 |
裏の銘には26世で住職の兄の名も刻されているが、この先代の住職も昭和52年に50才の若さで早世された。現住職は |
身延山で修業し資格をとると26才頃より社家の常在寺で住持していたが、兄の急逝でしばらくは常在寺・法輪寺を兼務した。 |
その後弟を池上本門寺から呼び寄せ、自分が昭和57年に法輪寺の27世として入山したという。 |
話はそれから母親のことになり、板倉師を贔屓していた母は亡くなる前に、旧本堂の欄間3枚が戦災から守り残されたものを、 |
庫裏新築の際に使用するように言われたということで作品を紹介していただく。師の日記にある昭和18年7月「欄間の雲に鶴 |
牡丹に獅子」である。庫裏に納められた欄間をお母様が晩年に床から眺めておられたという話が非常に印象に残った。 |
本堂内部については厨子の話が耳に残る。昭和16年頃社家常在寺で作られた厨子は戦災で焼失したが、昭和50年代に |
再制作された。本堂の天井が低く厨子が入りきらず、須弥壇の足を少し切って納めたということである。なるほど大変立派な |
厨子は天井に届きそうに高い。 |
また内陣両側の小脇に金色に塗られた上り龍下り龍が輝き、上の欄間にも相対する2匹の龍がはめられている。外陣の欄間 |
には日蓮聖人の伝記8枚が、内陣の欄間には雲に天女と計11枚もの作品が認められる。本堂内における彫刻は須弥壇以外 |
すべて師の手によるものだそうだ。 |
本堂を手がけた後昭和43年に山門、昭和45年に手水舎を相次いで制作する。山門を依頼した時には何度となく住職は |
富士の板倉家を訪れているようである。とにかく板倉師は時間がかかる。檀家衆から催促され、督促に富士まで赴いたそうで |
ある。だが決って返事は「そう簡単に材料は手に入らないし、すぐにはできない」手を抜いた仕事はしたがらない、自分の信念 |
を貫く頑固さを示す一面である。山門には虹梁上の蟇股と扉に鶴丸、脇の塀に通用口も含め大変珍しく7枚の欄間に透かし |
彫りをしている。「雲に鶴」「松に鶴」「牡丹に獅子」ここまで飾られた山門を今まで見てこなかったと思う。 |