静岡県内
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本堂向拝 蟇股 「龍」 |
1,蒲原 佛身山 光蓮寺 |
<所在地> 静岡市清水区蒲原1−10−11 |
<宗 派> 浄土宗 |
<本 尊> 阿弥陀仏 |
<堂 宇> 本堂・位牌堂 昭和10年再建 山門 昭和15年再建 |
<由 緒> 元和6年9月然誉上人呑竜が開山である。昭和8・9年頃新国道開通により、八幡町の旧地より現在地 |
に移る。昭和37年3月松風山海前寺(浄土宗)と合併、海前寺の旧地山裾沢西よりの地を合わせて |
佛身山海前院光蓮寺と呼ぶようになった。 |
<彫刻詳細>本堂向拝 蟇股「龍」 木鼻「若葉」 向拝虹梁「菊水」 海老虹梁 入口虹梁 向拝虹梁裏「若葉」 |
本堂内 前机正面「龍」 前机側面「雲」 前机台座「浪」 |
内陣欄間「二祖対面」 外陣欄間「二河白道」 |
山門 虹梁 拳鼻「若葉」 蟇股「牡丹」 山号額 |
向拝刻銘 相模國 湯ヶ原出身 現住 富士町 板倉 聖峯 作之 昭和拾年壹月 |
欄間刻銘 昭和三十六年辛丑年四月吉日 富士市本市場 彫刻師 板倉 聖峯 作之 |
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本堂向拝 虹梁裏 「若葉」 |
静岡市清水区蒲原で旧国道1号(県道396号)から旧街道に入り、諏訪神社のある蒲原宿東木戸の手前を北に上った |
ところに建立されている。旧東海道を京に上る時に富士川を越え岩渕から蒲原宿に向かうのに、山のほうを迂回して |
光蓮寺前を通ってすぐ下の蒲原一里塚に出たようだ。 |
初回訪問では数ヶ所回っている途中で時間がなかったため、住職の話もそこそこに次回の再訪を期して失礼する。2年後 |
に改めて訪問。今回はしっかりと撮影準備をして時間も充分とって伺うことにした。これも師の日記から光蓮寺の彫刻には |
かなり力を入れていたのではないかと思われるからである。 |
本堂・位牌堂の建築は昭和10年、山門は昭和15年である。まず目につくものは新しい感じのする山門と山門脇の塀に |
埋め込まれた寺号のプレートであった。浄土宗海前院光蓮寺となっているように過去に海前寺と合併したらしい。山門は |
脇の小さな寄付者名の石塔から昭和15年とわかるが、とても60余年も経っているとは思えず、近年に修復改装したのでは |
ないだろうか。師の日記通り蟇股に牡丹、肘木虹梁に若葉が付いている。山号額は2年後に取り付けられたようでこの字も |
師が彫ったものとされている。 |
境内に入ってみると、きれいに手入れされた庭の正面に寄棟のなだらかな勾配の屋根をもつ本堂が建っていた。屋根瓦の |
葺き替え、外壁・入口などの改装が見られるが、向拝彫刻は70年前のままである。 |
蟇股でこちらを睨んでいる龍は髯が左右にピンと張られて、由比豊積神社・山梨内船寺山門の構図に似ているようだ。二重 |
虹梁間に納める蟇股であるゆえ各社寺でのサイズに違いはあろうが、幾分扁平に見えるもそれなりの威厳を保っている |
のである。虹梁はそれぞれ若干亀裂がはしり年代を感じさせるが、正面の菊水といい海老虹梁や木鼻の若葉といい師の |
特徴が存分に表現されている。 |
蟇股裏の刻銘を確認したあと住職に本堂内について説明をいただいた。内陣正面に構えた見事な欅の前机も師の作品だ |
そうだ。戦前に発注したものの戦争に入ったため戦後に完成し納められたもので、師から塗装しないよう言われたが、保存 |
上、どうしてもそうはいかないということであった。日記では戦前の昭和16年12月に依頼を受けているが、戦後の納入時期 |
は記されていない。艶やかなそれでいて重厚感のある前机の正面には対面した2匹の龍が、下部には雲、台座に浪が彫って |
ある。本堂内の欄間については戦後もだいぶ経ってからだ。日記には記載されていないが、内陣虹梁裏には明らかに師の |
銘が彫られていた。昭和36年4月の作と読み取れる。内陣虹梁には「二祖対面」が3枚、外陣虹梁には「二河白道」の欄間 |
が表裏3枚はめられている。住職が奥から二河白道の掛軸まで出してこられ丁寧な教えに耳をかたむけたのであった。 |
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日朝堂 入口虹梁 「蓮花」 |
2,蒲原 仏護山 東漸寺 |
<所在地> 静岡市清水区蒲原2−13−7 |
<宗 派> 日蓮宗 |
<本 尊> 宗祖日蓮聖人奠定十界曼荼羅 |
<堂 宇> 本堂 明治45年再建 日朝堂 昭和46年建立 |
<由 緒> 創立は宗祖9老僧の1人日目上人で元弘元年2月である。また、寛永9年の記録に東漸寺の開創は |
大永元年に日要上人によりなる、ともあり2説に分かれる。初めは仏護山大法東漸寺といわれ同名の |
安居山東漸寺、甲谷村東漸寺と共に古来三東漸寺と称せられた。開創の頃は現寺地より4〜500m |
西の方にあったが、徳川家光が蒲原御殿造営の際寺地を賜り現在地へと移転する。その後堂宇は |
火災や山崩れ等により焼失、崩壊し建物は幾度か変わったが、現在の本堂は明治末年再建された |
ものである。 |
<彫刻詳細>本堂内欄間 正面3枚「阿弥陀来迎図」 右側面「桐に鳳凰」「若松に鶴」「梅に鶯」 |
左側面「牡丹に獅子」「松に鷹」「雲に龍」 右脇陣「伊豆の法難」「小松原の法難」 |
左脇陣「立教開宗」 |
日朝堂 妻の懸魚「雲」 向拝虹梁「牡丹」 向拝蟇股「参拝の図」 蟇股裏「イノシシとネズミ」 |
入口虹梁「蓮花」 繋虹梁 拳鼻 虹梁裏「若葉」 |
静岡市清水区蒲原の旧東海道蒲原宿の中心部に建立されている。創立は14世紀という日蓮宗の古刹である。 |
旧街道から細い参道を50mばかり入って山門をくぐると正面に寄棟造の本堂。再建された年は明治45年だそうだ。当然 |
本堂向拝の彫刻は別人のものである。さすがに亀裂が入ったり所々傷んではいるが、なかなか見事な作品だと思われる。 |
師の日記の最初に出てくる東漸寺の欄間というものを拝見したく案内していただく。本堂に入りご本尊に合掌して堂内を |
見渡すと、外陣から脇陣にかけて正面3枚、左右側面3枚と両脇陣に2枚ずつ計13枚もの欄間が、最近の修復であろうか |
真新しい枠にはめられている。記述によると「若松に鶴」「龍」「鳳」とあるのは左右側面に見受けられる。また、「マナ板岩法難」 |
「流罪放免」「立教開宗」は両脇陣4枚の内3枚にあたると思われる。ただ、昭和3年というとまだ独立前で伊藤師匠の弟子に |
なって数年であり、図案・荒彫りは師匠の仕事であって板倉師の仕事とはいえないだろう。 |
本堂を出て山門脇に建つ日朝堂に向かう。入母屋の妻入りになっている日朝堂は昭和46年の建築で、30年以上経ったとは |
思えないほど新しく感じるのは近年修復したのだろうか。日記上、昭和46年12月に向拝虹梁正面の牡丹・裏の若葉・蟇股・ |
拳鼻・懸魚と記されている。建築年の確認もとれず推測の域を出ないが、日記との照合からほぼ間違いないであろう。向拝 |
虹梁の左右に牡丹の大輪が、裏には師のノミ跡がはっきり出ている若葉が彫られていた。また、蟇股には参拝の図、裏側は |
イノシシとネズミがあり、昭和46年が亥年で12月から年が明けて子年になることを表しているのだろうか。入口虹梁においては |
蓮花の図案で花弁や葉脈まできっちりと彫られていて、この彫刻には目を奪われるものである。 |
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本堂向拝 木鼻右側 「振向獅子」 |
3,清水 龍水山 海長寺 |
<所在地> 静岡市清水区村松299 |
<宗 派> 日蓮宗 |
<本 尊> 十界大曼荼羅御本尊 |
<堂 宇> 本堂 昭和24年再建 |
<由 緒> 開創は仁寿2年(852)有度山八ッ原に創建された天台宗の古刹で村松山峨岳寺と称した。開基は |
慈覚大師で寛弘8年(1011)山津波で崩壊してから現在地に遷る。文永9年(1272)日蓮聖人の |
弟子日位上人が当地を布教した折日蓮宗に改宗した。何度か修復再建をくり返し、近年では大正10年 |
3月位牌堂から失火し鐘楼と庫裏を焼失したが、満10年にして祖師堂、本堂、書院などを造営し昭和 |
6年の宗祖650年遠忌に落慶した。しかし、昭和20年7月空襲により鐘楼と宝蔵を除いて灰燼に帰した。 |
戦後は昭和24年に本堂再建。 |
<彫刻詳細>本堂向拝 蟇股「龍」 木鼻「振向獅子」 向拝虹梁「牡丹」 繋虹梁 向拝虹梁裏「若葉」 |
入口虹梁「蓮花」 |
妻部分 懸魚 六葉 鰭「雲」 |
刻銘 昭和廿四年十一月吉辰 龍水山 六十四世 日教代 |
富士郡 富士町 彫刻師 板倉 聖峯 作之 |
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本堂向拝 虹梁右側 「牡丹」 |
静岡市清水区村松は清水市街地の南よりのところで、ここに海長寺が建立されている。元々は9世紀半ばに開創された |
天台宗の寺院であったが、鎌倉期に日蓮宗に改宗し本山になっている。師の日記では昭和4年の3月から7月にかけて |
向拝の彫刻をしたことが記されているが、寺史によると度重なる堂宇焼失の憂き目を見てきた。昭和6年に宗祖650年遠忌に |
本堂落慶とあるので、日記上の龍・木鼻・虹梁の睡蓮はこの当時のものであろう。 |
しかし、昭和20年7月大戦の清水空襲の折、伽藍は灰燼に帰する。日記の記述は終戦後の仕事についてほとんど記されて |
いないが、現存する作品は戦後4年経った昭和24年に本堂を再築した時のものである。昭和4年の最初の時には独立前で |
伊藤師匠の図案の下に仕事をしていたのであろうが、現在目にする作品は板倉師の図案によって制作されたものであるから、 |
当時とはおそらく違ったものになっているはずだ。 |
初回の訪問時は1日に数ヶ所も回ったときでカメラもコンパクトカメラでしかなかったため、改めて2年後に脚立をかかえて |
撮影に向かう。次郎長で有名な梅蔭寺の方から南下してくると本堂西側に広い駐車場がある。山門はこの通りから1本東の |
路地の方なので反対側になる。69世日浄上人による山号額が掛かる山門をくぐり左側に鐘楼、右側に宝物館を眺める。 |
本堂は入母屋本瓦葺の堂々たる屋根で、掛瓦に徳川家康に縁のある寺院であることを表すように三つ葉葵が付いている。 |
今回の訪問では住職が不在のため、若い僧に用向きを伝え撮影の許可を得る。立会いの方は本堂再建のこと向拝彫刻の |
ことなどご存知でなかったので、蟇股裏側の刻銘を指して師の業績など情報提供する。蟇股の龍は2匹が向かい合っており、 |
親子ではなく双方の大きさからどちらも成龍であろう。背後を見ても同じ胴回りの2匹がうまく絡み合っている。そしてその |
構図は後に制作する富士宮代立寺や早稲田法輪寺などが類似している。龍のほかにも海長寺の彫刻ですばらしいものは |
向拝虹梁の牡丹であろう。富士宮代立寺、蒲原東漸寺日朝堂の虹梁にある牡丹の大輪といずれも甲乙つけがたいものが |
ある。繋虹梁・向拝虹梁裏の若葉はやや単調なものの入口虹梁の蓮花がいい。蓮花や葉は無論だが水の流れのノミ跡は |
一刀の下に彫りぬいた感じでありこれも傑作といえよう。 |
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本堂前机 前欄間右側 「龍」 |
4,富士宮 富士山 北山本門寺 |
<所在地> 富士宮市北山4965 |
<宗 派> 日蓮宗 |
<本 尊> 日蓮聖人図顕大曼荼羅御本尊 |
<堂 宇> 本堂 昭和6年11月再建 昭和16〜17年改修 |
<由 緒> 本門寺は地名を冠し「重須本門寺」あるいは「北山本門寺」と呼称されているが、その由緒は「法華本門寺 |
根源」と称し富士山本門寺根源と公称する。日蓮聖人の弟子日興上人開創の地にして、日興上人53才 |
永仁6年(1298)重須地頭石川能忠、上野地頭南條時光、法華講衆の力により三堂造営となり「法華 |
本門寺根源」と称せられた。その後本堂は宝永3年、天保15年、文久3年と改築され昭和6年再建され |
現在に至る。 |
<彫刻詳細>本堂内 前机前欄間「二匹龍」 前机右側面「牡丹 紅」 前机左側面「牡丹 白」 |
前机台座「牡丹」 厨子前机「牡丹」 厨子前机台座「浪に千鳥」 |
厨子脇障子「松に鶴」 厨子台座「牡丹」 |
富士宮市北山の国道139号から北山インターを出たすぐ西側に建立されている。北山の本門寺は日興上人の開創から |
700有余年の歴史を誇る日蓮宗大本山である。 |
前もって本門寺のホームページからメールで撮影許可の依頼を申し込んだ。半月後に返事がきて許可が出る。改めて電話にて |
訪問日時を告げて訪問。国道469号を境に南側に坊が並び北側には大きな仁王門が建てられている。三間一戸の二重門で |
ある。参道は仁王門から境内に続き二天門を抜け本堂に突き当たる。境内右側に鐘楼、右奥に開山堂があり、本堂左側には |
長い廊下に続いて客殿、庫裏と建てられていた。さすがにその敷地は広大である。 |
山務庁入口は左側の庫裏にあり電話連絡の件を告げて案内される。先ほど境内から眺めた長い廊下を通って本堂の西側から |
入る。ご本尊に合掌一礼して撮影開始。まずは外陣欄間の極彩色が目に飛び込んできた。雲上で楽器を奏でる天女達。この |
3枚の欄間は虹梁も含め記述もなく師の作品ではない。 |
内陣に目をやると天井に届きそうな荘厳な厨子が納められていた。本堂の棟札に大正13年のものがあるが、その後の再建は |
昭和6年、昭和16年に改修されている。厨子の前机を制作するために北山まで通ったということを慎治氏が話しておられたが、 |
なるほど大小2台の前机は荘厳な厨子の前で引けを取らず見事に調和している。日記から昭和17年に前机とあることから、 |
本堂改修の際に依頼されたのであろう。 |
立ち会っていただいた若い僧からは年配者が不在で彫刻のことはわからないという。調度や仏具を動かすこともできず隙間 |
から前机を撮影。台座彫刻と記述にあるのは、前机の台座四周に彩色された牡丹がありこのことだろう。 |
また、「前机の前欄間・龍・牡丹」とあるのは、台座に乗った前机の正面に対面した2匹の龍が彫られてあり、火焔の赤と緑色の |
体に金色の頭部が浮かび上がりひときわ衆目に値する。 |
机の左右側面には紅白の牡丹の大輪、浪に千鳥は厨子前に置かれたもう1つの机の台座に彫られていた。ただ脇障子とある |
のが厨子の脇障子のことだろうか。定かではないが厨子台座にも机と同じ牡丹が彫られていることから、厨子の脇障子に |
描かれた「松に鶴」も師の作品と推定される。さすがに大本山北山本門寺ともなると撮影許可をいただくのも厳しいようだが、 |
銘もなく証言もない推定の域を出ないもののまさしく師の作品に対面できたことは収穫であった。 |
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本堂向拝 蟇股 「親子龍」 |
5,富士宮 富士山 代立寺 |
<所在地> 富士宮市小泉1917−1 |
<宗 派> 日蓮宗 |
<本 尊> 大曼荼羅御本尊 |
<堂 宇> 本堂 昭和32年2月再建 |
<由 緒> 開創は江戸初期「日蓮宗寺院大鑑」によれば寛永6年4月(1629)、「静岡県仏教会名鑑」では承応3年 |
4月(1654)としている。縁起について「日蓮宗寺院大鑑」は西山本門寺第16世日映の弟子、日堯が |
当地に庵室を設けて布教した折に妙泉が帰依。その妙泉の一周忌に際し、その子清金兵衛は遺言に |
従って当地を寄進、日堯を開山に本門寺末として創建されたとする。明治14年、17世日周が本堂を |
再建、大正11年11月日光が庫裏を新築、19世日淳の代に本堂・位牌堂・山門などを建造した。 |
<彫刻詳細>本堂向拝 蟇股「親子龍」 木鼻「振向獅子」 向拝虹梁「牡丹」 入口虹梁「カキツバタ」 |
海老虹梁 手挟 持送り 向拝虹梁裏「若葉」 |
妻部分 懸魚 六葉 鰭「若葉」 |
本堂内 内陣虹梁「若葉」 外陣虹梁「蓮花」「若葉」 外陣欄間「お誕生」「立教開宗」 |
内陣欄間「佐渡塚原三昧堂」「龍口の法難」「小松原の法難」「伊豆の法難」 |
位牌堂虹梁「蓮花」「若葉」 旧須弥檀の木鼻「真向獅子」 |
富士宮市小泉で西富士道路小泉出口南西側に位置した地に建立されている。交差点になった角に大きな題目塔を眺めつつ |
山門をくぐる。境内右手に鐘楼。高さの割りに屋根が大きく感じる鐘楼であった。正面に本堂、廊下続きで左手に庫裏が建つ。 |
本堂は昭和32年2月に再築の上棟がなされたようで、師の日記にある昭和32年1月の記述と一致する。 |
寺院の本堂はそのほとんどが南向きであるため、山間にある大木で覆われた寺院でない限り、どうしても向拝部は陽が当たり |
やすく彫刻も焼けてしまって痛みが早い。よく眺めてみると軒裏の手挟に比べて木鼻や向拝虹梁の色が違って見える。この |
ような環境や木の質によっても違いはあるだろうが、長く保存していくには塗装などの被膜で覆う方がよいのか。しかし、やはり |
木製の作品については白木のままがいい。くすんだ色をした向拝もそれはそれで年季の入った渋みさえ感じられていいもので |
ある。 |
向拝虹梁の牡丹は清水の海長寺と同じく大輪を咲かせているが、花弁が細かく彫られていて美しい。師の日記と照合しながら |
見ていくと、手挟・海老虹梁・持送りの若葉、入口虹梁にはカキツバタが付く。社寺彫刻においてしばしばカキツバタを目にする |
が、実際はアヤメかハナショウブかはっきりとはわからない。アヤメは乾燥地に咲き、カキツバタは水中、ハナショウブは湿地 |
に咲くというくらいで、彫刻の上では区別がつかないのである。しかし、やはり防火の祈念から水草であるカキツバタが多く |
使われているのではなかろうか。 |
他にも木鼻には振向獅子が、そして蟇股には親子龍が。龍の構図は今泉十王子神社の左側親子のタイプである。背部の鱗も |
きっちりと彫られ、親の体に子龍が絡んでじゃれている様な感じさえするのだ。ただ、これ程の作品を残しているのに銘がない。 |
師は自信作にのみ銘を入れたらしいが、代立寺作品は蒲原若宮神社同様に秀逸な作品だと素人目には思えるのだが気にいら |
なかったのだろうか。庫裏入口から住職を訪ねると板倉師の作品に間違いないとの確証を得た。 |
本堂内部に案内していただく。一礼して本堂に入ると外陣・内陣・脇陣それぞれ日蓮聖人の伝記を描いた欄間が目に入って |
くる。正面外陣虹梁の蓮花の上に「お誕生」と「立教開宗」があり、内陣・脇陣と三法難を始めとする一代記が綴られているよう |
だ。須弥壇は新しく平成17年に新調したというからつい最近の話である。ここで住職から思わぬ話があった。旧の須弥壇の上に |
あった獅子がすばらしいので残しておいたということだ。本堂奥の位牌堂に保管してあるとのことで早速拝見したいと申し出る。 |
位牌堂正面の蓮花虹梁の下から大事に取り出された獅子頭は前を向いて咆哮している。まさしく獅子吼という言葉通りの表情 |
であった。これは師の日記上の「内陣の真向獅子」と昭和32年1月の記述のことだろう。 |
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