中世東海道(吉原・見付〜沼津・車返しの里)



日時・行程
          2011年9月25日 
          吉原湊・見付宿跡 〜 元吉原宿 〜 県道380号 〜 柏原駅 〜 
          山の神古墳 〜 甲州街道 〜 原中宿 〜 千本松原 〜 県道・大塚 〜 
          旧東海道・大塚 〜 間門八幡 〜 西間門 〜 丸子橋 〜 丸子神社 〜 
          白銀町 〜 沼津駅前 〜 三枚橋城跡 〜 蓮光寺(車返しの里) 


地図

国土地理院地形図(吉原 沼津)     現地住宅地図(ゼンリン)  



吉原湊・見付宿跡  石碑前を東進  日本山妙法寺  山門から砂山上を東進 


蒲原宿を出発して浦方路を通って、今回は見付宿から車返しの里まで歩く。見付宿跡の石碑から東に 
向かうと妙法寺に突き当たってしまう。境内を通り抜け本堂に一礼して山門より街道に出て行く。道は 
砂山上を東に伸びている。 



地蔵堂前のえんま堂  六地蔵  地蔵堂  地蔵堂脇の階段を登る 


出発してから10分ほどで地蔵堂前に着いた。西側にえんま堂が建ち、相当古そうな水盤の刻字を 
見ると宝暦13年(1763)癸未年2月とあった。えんま堂前には富士山を背にして六地蔵が並ぶ。地蔵 
堂はその東側に建てられていた。そのまま下に下る道もあるが、当時はおそらく脇の階段からさらに 
砂山上を行ったのではなかろうか。 



地蔵堂上の交差点  木之元神社  木之元を下り東海道に出る  元吉原宿跡 


地蔵堂の上側に出て一度左に曲がった交差点である。直進すると砂山上を毘沙門天妙法寺の裏に 
出る道だが、交差点を左折して木之元神社のある方向に行く。神社境内を通り鳥居から石段を下った 
ところが元吉原宿跡になる。見付宿が度重なる砂の害によって天文年間に宿場の所替になり寛永 
16年(1639)の高浪の被害で中吉原宿に所替になるまでの宿場となった。 



手児の呼坂(今井の海老坂)  毘沙門天妙法寺  県道380号との合流地点  桧新田の愛鷹神社 


古代東海道には手児の呼坂(たごのよびざか)という地名が史料に出てくるが、柏原駅が浦方路と根方 
路2説あるようにこの坂も原田という説もある。今でも坂口と地元でいわれている元吉原宿東のあたり 
に砂山に上る坂があり海老坂薬師が祀られている。坂口を過ぎしばらく行くと毘沙門天妙法寺。そして 
旧国道1号である県道380号に合流する。元吉原宿から原中宿を過ぎ間門までは近世東海道、JR 
東海道線とほぼ並行したルートであったようだ。 



米之宮神社と淡嶋神社  淡嶋神社前の道祖神  仁藤春耕の道しるべ第一号  須津・吉永への道しるべ 


桧新田の愛鷹神社、田中新田の米之宮神社・淡嶋神社を過ぎたあたり街道の北側に道しるべを 
見つける。仁藤春耕が明治時代十里木越えの道に建てた道しるべの1号がここにある。刻字を 
見ると須津村役場まで1里、吉永村役場まで31町と書かれていた。ここから浮島が原を突っ切って 
根方道に通じていたことになる。 



昭和放水路  正法山立圓寺  柏原駅跡  JR東田子の浦駅 


浮島沼の洪水被害から守る為に沼川の水を駿河湾に流すように人工的に放水路が造られた。その 
広沼橋を渡って柏原地区に入って行く。左手に正法山立圓寺。境内にはここからの富士山の眺めが 
すばらしいと文化5年(1808)に望嶽の碑が建てられている。やがてJR東田子の浦駅に近づく。おそらく 
このあたりに2説あるうちの浦方路の柏原駅があったものとされている。 



六王子神社  浮島が原  旧東海道から北に入る  JR東海道線柏原踏切 


東田子の浦駅の入口には吉原湊に伝わる伝説に出てくる六王子神社。ここまで見付宿から1時間
10分。駅周辺を散策して当時の浮島 が原を偲んでみるも現在の当地は沼地を探すのも難しいくらい
に開発されている。 やがて県道380号は旧東海道(近世)との分岐に来る。ここで街道から北に入り 
JR東海道線の踏切を渡り寄り道をする。 



庚申塚古墳  庚申塚古墳の説明板  山の神古墳  山の神古墳の説明板 


柏原踏切を渡った左右に庚申塚古墳と山の神古墳があった。左手西側の庚申塚古墳は約1500年前 
の豪族の墳墓で双方中方墳という非常に珍しい形をしており県の指定文化財になっている。一方、山 
の神古墳の方は6〜7世紀あたりのもので当時のスルガの王墓ではないかと言われている前方後円墳 
だが東海道線を通す工事の際に南側が一部削られてしまっているのが惜しい。こちらは富士市で文化 
財指定をしている。 



古墳から戻り公会堂入口  柏原一丁目公会堂を左折  角にある津嶋牛頭天王社  一度県道に出る 


元の県道380号分岐に戻り、南側の柏原一丁目公会堂入口という看板が立てられた路地を海側に 
入って行く。中世東海道は資料によると県道380号よりやや北の現在JRの線路が通っているあたり 
のようだ。しかし線路上を歩くわけにはいかないので県道上を歩かなければならない。またもう1本 
かつて沼津から吉原湊まで伸びていた砂嘴(砂丘)上の道、甲州街道と呼ばれていた道があった。 
それは今の県道が通る位置から松原の中に入ったあたりを通っていたらしい。そこで松原の中に 
今も通っている道を歩くことにした。公会堂前の津嶋牛頭天王社から東に向かう。 



沼津市に入る  再び松林の道に入る  松林はジョギングコース  浮島が原 


道が途切れ一度県道に出るところで沼津市に入る。すぐに松林の道に戻り東進。ここから千本浜公園 
まで10.45kmのジョギングコースとして沼津市により整備されていた。非常に快適な樹林の中の道 
である。途中松林の切れた所で浮島が原を眺めてみるが全くそれらしさが見えない。だが雲がなけれ 
ばここからの富士山もすばらしいだろうと思いつつ足を速める。 



吉原湊方面  清水三保方面  沼津港方面  伊豆と駿河湾 


12時になり松林から南の堤防上に上って昼食。駿河湾の緩やかに湾曲した海岸線がよく見える。 
西の方は清水の三保方面、山の上に鉄塔の見えるあたりは日本平か。手前に今日のスタート地点 
である吉原湊と工場の煙突。目をぐるっと東に向けると沼津港方面。内浦、三津から大瀬岬と伊豆の 
山々が一望できる。顔に当る風は穏やかで海面の波も静かに秋というよりまだ夏のような眩い陽光 
が反射してまるでダイヤの煌きのようだ。 



甲州街道(千本街道)  水落堀跡  要石神社  大山祇神社 


再び松林に戻り東進していく。この道は今はジョギングコースとして整備されているが、砂嘴上の松林 
の中の道は沼津千本公園まで続くかつての甲州街道であった。戦国時代武田氏が甲州から駿河攻め 
の折、北条氏が見付宿辺りに陣を張ったという記録からおそらく北条軍もこの道を通ったであろう。 
また武田氏はこの道を通って甲斐に塩を運んだと言われている。水盤に安政2年と刻された要石神社 
や大山祇神社が南向きであるのを見てもこの位置に街道が通っていたのは間違いないであろう。 



放水路の為堤防に迂回する  第二放水路  路傍の道祖神  題目塔 


松林の道は放水路に突き当たる。ここは一度堤防に上がり迂回する。途中道祖神や題目塔、墓石群 
などがあるが刻年が欠けたり不明瞭でいつのものかはわからないものが多い。 



原中宿手前  原中宿あたり(JR原駅周辺)  路傍の馬頭観音碑  柏原より約4km地点 


題目塔のあったところで県道に出る。県道沿いにある原中学校から東側JR原駅まであたりが原中宿 
の位置であろう。春の深山路に出てくる「はらなかの宿」という所である。原中宿についての史料が 
少ないので詳細は不明であるが、慶長16年(1611)高潮の被害で近世東海道の原宿に所替になった 
という。それまではこの位置に一里塚もあったとされているが、あたりを見渡してもそれらしい跡は 
見つけることができなかった。また松林に戻り馬頭観音前を通り過ぎるとこのあたりで柏原駅より約 
4km来たところである。 



千本松原  千本県営林の説明板  松原内の大古久天神(大黒)碑  消防31分団横で県道に出る 


原中宿より10分ほどで千本松原の表示があった。やや広くなったところに休憩所が建てられ千本松原 
の説明板もある。東関紀行などには当時の松林の風景が記されているが現在ではだいぶその本数は 
減っているようだ。享保2年(1717)の記録では5875本あり長さ588間となっている。休憩所を過ぎ 
大古久天神碑の所で県道に出ると消防の31分団前であった。ここからすぐ先の大塚まで県道を行く。 



大塚の図書印刷で旧道に入る  神明宮前に出て右折  旧東海道(近世)を東進する  間門八幡宮 


松林の甲州街道から本来の中世東海道に近い所を辿ることにする。県道380号大塚の表示がある 
信号を渡ると図書印刷工場があり、その脇の道を北に入って近世東海道に出ると神明宮前だ。ここ 
から間門までは近世東海道(県道163号)を行く。大諏訪・小諏訪を通って間門八幡宮に着く。間門 
地区の西の入口で安永7年(1778)に建てられた沼津領境の傍示杭もある。 



間門八幡の東を北に入る  突き当りを右折する  コインランドリーの五叉路を東へ  沼津駅方面に向かう(西間門) 


のんびり歩いているので間門八幡まで原中宿から1時間20分かかってしまった。八幡宮脇の道を北に 
入り、突き当りを右に折れ間門地区の中をより当時の道に近いように辿っていく。コインランドリーの 
ある五叉路を斜めに左へ曲がり東向きに沼津駅方向に向かっていく。 



丸子橋の上から新中川を見る  沼津一中の前を通る  丸子神社  突き当りを右折 


西間門から丸子地区に入る。新中川に架かる丸子橋を渡って沼津第一中学校前を通り過ぎる。一中 
のすぐ南に丸子神社があった。延喜式神名帖にも載る式内社で旧跡からは刀・鋤・鍬などが出土され 
ている。やがて道は倉庫に突き当たる。ここを右折すると白銀町交差点。現在では当時の街道はなく 
やむをえず交差点を左折して沼津駅に向かう。 



沼津駅前を通過  三枚橋城跡  蓮光寺(車返しの里)  蓮光寺東側の坂 


間門八幡から約30分で沼津駅前を通過。西武百貨店の東隣わたやすの南東側一帯が三枚橋城跡 
のようだ。今では全くその面影はなくビル群である。三枚橋城は16世紀駿・甲・相三国の激突地点 
であり何度もその支配者が変わってきた。このあたりの地下には発掘調査によって堀の石垣も残って 
いることがわかっている。三枚橋町に出て国道414号を渡り蓮光寺に到着する。見付宿跡を出発して 
からおよそ5時間30分ほどの行程であった。沼津駅前から来ると蓮光寺からやや高台になっていて 
車返しの里と呼ばれた宿駅になっていた。一説によると蓮光寺東の坂からそういわれたという。 






【参考資料】


更級日記・・・  東から西への道中   この地点での記述 
          特に記載なし 
 
海道記 ・・・  西から東への道中   この地点での記述  
           浮島が原を過ぎたけれど、名は浮島だが実際は海中にあるのではなく、野原の中の
           道というべきである。草叢や木立がある。そこを過ぎると人家から炊事の煙がきれぎ 
           れに途切れたり上ったりする。若木が生えて間を隔てていて、互いに隣家とは離れて
           いる。富士山を見ると、都で聞いていた通り天の中ほどに聳え、四方の山から抜き出
           ている。雪が頭巾のようで頂上を白く覆っている。雲が腹帯のようで中腹を長く取り囲 
           んでいる。この山は多くの山の中でも比べるものがない霊山である。 
 
東関紀行・・・  西から東への道中   この地点での記述  
          浮島が原はどこよりもすばらしい光景に見える。北の方は富士山の麓で、そこに西か 
          ら東にかけて遥かに長い沼がある。まるで布を引き敷いたようだ。富士の山の緑が 
          影を水に映して空と一つになっている。蘆を刈る小舟があちこちに浮かんでいて、群 
          がっているたくさんの鳥が飛び交っている。南の方は海の面が遠くまで見渡され雲の 
          ように立ち重なった波や、煙のようにかすむ波の景色は趣が深い。 
 
十六夜日記・・・西から東への道中   この地点での記述 
          特に記載なし           
 
春の深山路・・・西から東への道中   この地点での記述 
          浮島が原はただ砂地に芝草だけが生えている。北は富士山、麓は広い沼である。 
          浮島が原の中であるが小石が多い。青野・小松原・柏原などという所もある。そう 
          いちいち記していられない。藻塩を焼く煙が西になびいているのを見る。田子の浦波 
          は本当に間をおかずに立ち騒ぐ様子がたいそう趣がある。沼の大変広い所に群れて 
          いる鳥の羽音、小さい舟に棹をさして渡る身分の低い者の様子など絵に描きたい 
          ようだ。原中の宿という所に寄った。「日が暮れてしまう」と道を急ぐので、また心が 
          せいて出発する。車返しの里までは2里とかいう。 



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