む す び
夢中になって龍を追いかけた3年間が過ぎ、4年目に入った今年の初めから毎週末図書館に |
通った。 実際に神社や寺院のこと、日常の生活の中であたりまえのように慣習として携わって |
きた行事も、改めて史料や論文等調べてみるとあまりにも無知であった自分を発見する。 |
きっかけは何であれ「板倉師」を通して必死になって社寺彫刻というものを追いかけ回した |
時間が今では短くもあり非常に自分の中で存在感を持ってきたものである。 |
板倉家に残された「仕事日記」がなければ、ここまで作品を追うこともできなかったし、神社 |
の向拝に立ちノミの跡を凝視することもなかったであろう。日記のコピーを受け取った当初は |
とにかく何度も何度もくり返し読むのが精一杯であった。懸魚とは蟇股とは何だ?このような |
用語を調べて覚えるのに何ヶ月かかったことだろう。寺院を訪問するのに仏教の宗派によって |
どこがどう違うのか、御本尊や経典の違い、欄間彫刻の図案の違いなどある程度の予備知識を |
頭に詰め込んで住職を訪ねなければ、折角の話を聞かせていただいても何にもならないのでは |
ないか。すべてにおいて未経験のことであり、どのようにしてまとめ上げていけばよいのか |
暗中模索する状態が続いたのである。 |
普段は用でもなければ素通りしていた神社も、いつしか立ち止まり向拝彫刻を覗く癖まで |
ついてしまったようだ。板倉師をはじめ第三章に記載した近郊の名匠たちの刻銘が見えると、 |
感心したり納得したり何回も社殿の回りをうろついて、まさしく挙動不審の状態であった。 |
そして、いつしか自分の頭の中で作品のバランスやノミ跡の美しさなど素人ながらも評価して |
いたのであった。現在、神社ではほとんどが宮司は兼任しており、日頃の境内・社務所は無人 |
である。社殿の撮影には全く問題はないが、祭典時での氏子連が集まっている時でないと |
建築年や由緒など話を聞くこともできない。 |
その点、寺院においては法事等がなければ住職を訪ねて撮影の許可をいただき、本堂内部まで |
拝観しながら師の思い出話など伺うこともできた。寺院訪問は自分の都合を優先したため、 |
ほとんどが連絡なしに突然伺ってしまった。非常に礼を失した行動であり大変申し訳なかった |
と反省している。しかし、それに対してどこの住職にも親切丁寧に応じていただけたことは |
本当にありがたかった。玄関に立ち訪問した理由と板倉師のこと「仕事日記」のことなどを |
話しながら、富士市教育委員会文化振興課長名でのお願いの文書(自分ではお墨付きと思って |
いた)を提示して拝観撮影の許可を求めたのである。最近の社会事情などで、このお墨付きが |
なければなかなか信用してもらえない時もあるだろうと思うと大変ありがたいものであった。 |
これまで自分の中では「しきたり」でしかなかった仏教というものが、寺院訪問で住職の熱心 |
な法話によって少しずつ違ったものに位置づけられてきたことを感じるようになった。そして |
彫刻を制作する作者は宗派ごと違ったテーマでの欄間制作において、しっかりと仏教という |
ものを理解して彫っていたのだと思うと頭の下がる思いである。事実、板倉師はあらゆる |
ジャンルの本を読み、彫刻の題材に関しては相当の書籍を所蔵していたという。昭和5年から |
6年にかけて山門の仕事をした山梨の内船寺では、おそらく本堂向拝の彫刻を見ていたのだろ |
うと思うが、松崎の名彫刻師である小澤半兵衛と徳蔵親子の作品である。江戸時代末期の名工 |
半兵衛の作品を見て板倉師は何を考えたのであろうか。第三章の名匠たちを調べている時に |
出合った資料であるが、昭和53年に松崎町文化財専門委員会から出された小澤半兵衛一族に |
ついての報告書がある。この中に数行ではあるが板倉聖峯師のことについて述べられている。 |
委員が本市場の板倉家を訪ねた時、半兵衛の作品についての特徴を語られたということで |
ある。日記には記されていなかったが、やはり他の名匠たちの作品もよく研究したのではない |
だろうか。昔の名匠たちに道具の揃っていない時代なのによい仕事をしたものだと。ちなみに |
師のノミは300本くらい使っていたようである。また、向拝彫刻についてこうも語って |
いた。「木鼻の獅子は智を象や獏は慈悲を、そして龍は勇気を表すものである。」 |
師はあくまでも仕事と言っておられるが、脈々と流れている江戸彫工の技術を受け継ぎ、さら |
に独自の研究を重ねて表現された作品は芸術であり文化財であるといっても過言ではない。今 |
まで見過ごされていた隠れた文化財、そしてその作品を生み出した名工が自分たちのすぐ近く |
に存在していたことはほとんど知られていないのだ。指定された文化財いわゆる「額に納 |
まった文化財」が保護されるべきであることは無論だが、「額の外にある文化財」に対しても |
我々はもっと関心を持つべきではないだろうか。人里離れた小さな社に立派な彫刻が朽ちかけ |
て、蜘蛛の巣が張ったりしているのを見るにつけ非常に寂しく胸の詰まる思いがするものだ。 |
このように板倉作品に出会ったことから、周りの文化環境というものを考えさせられるように |
なったのである。 |
手探り状態から始めたこの稿をまとめあげるまでに4年もかかってしまった。現在、板倉師は |
湯河原の「曹洞宗高源山天寿院」に眠っている。何とか3回忌までに仕上げる目標でいたの |
だがままならず、個人的にこの小冊を墓前にささげ師の業績に対して感謝しお礼の報告を |
したいと思う次第である。「聖峰茂堂居士」霊位に合掌。 |
平成21年11月 |