山 車・屋 台
吉原祇園祭 山車・屋台
![]() |
屋台正面欄間 「青砥藤綱・滑川の十文」 |
1,本町二丁目(吉原本町) |
<彫刻詳細> 正面鬼板「牡丹に獅子」 正面懸魚「雲に鶴」 後部鬼板「牡丹に獅子」 後部懸魚「浪に亀」 |
正面欄間右「青砥藤綱滑川の十文」 正面欄間左「楠正成・正行親子櫻井の別れ」 |
後部欄間右「浪にオシドリ」 後部欄間左「雲にオシドリ」 |
右側面欄間前後「牡丹に獅子」 左側面欄間前「桐に鳳凰」 左側面欄間後「松竹梅に鶴亀」 |
右脇障子「天狗に牛若丸」 左脇障子「登龍門」 |
富士市吉原祇園祭で天神社の氏子町内で、今回板倉師作品調査のきっかけとなった屋台である。祇園祭当日の午前中 |
引き回しの前に撮影できたようだ。というのも、所用のため本町二丁目だけは息子夫婦に撮影を頼んだからである。社寺と |
違い山車・屋台は普段山車小屋に格納されているため、祇園祭1週間前の清掃時か当日引き回し前しか写すチャンスがない。 |
本町二丁目は部分的には修復されてはいるが、彫刻の現存するものにおいて吉原祇園祭で一番古いものである。銘はないが |
日記には昭和9年2月に記述があり、師本人の口からも証言を得られている。江戸型(改良江戸型)山車の現存する最古の |
ものは本町一丁目の昭和12年であり、屋台としてはここ本町二丁目であろう。 |
昭和3年の御大典奉祝記念の写真で大正末から昭和初期の屋台が写っているが、ほとんどの町内が昭和30年前後に |
新築してしまった。残念ながら手元では大正以前の屋台を始めとする吉原祇園祭の資料がない。江戸吉原宿における祇園祭 |
として開催された起源を表す文書も見られず確証はないが、姉川一夢著の「田子のふるみち」から推定するに延宝8年(1680) |
の高波によって中吉原宿が壊滅し、翌年新吉原宿への所替になってからではないだろうか。 |
また、屋台についても同著にある万治3年(1660)の依田橋に住む太郎兵衛が船曳きをしたことから始まったように考えられ |
がちだが、これと祇園祭における山車・屋台とは全く違うものではないだろうか。現に明治40年6月より約4年間吉原に滞在 |
した、民俗学者の山中共古が著した「吉居雑話」には当時の吉原を中心とした近郊の風景・民俗等詳細に記されているが、 |
祇園神輿として次のようにある。「六月十四日夜六時ヨリ十二時迄吉原町祇園會神輿巡行ス」この前後を見ても山車・屋台の |
記述は全く見られない。 |
いずれにしても現在の新吉原宿になってから320年以上の歴史を調査し、しっかりと記録として保存していくべきだと思う。 |
こんなことを考えながら子供たちによって引き回されている屋台彫刻を眺めていた。 |
正面の本甼區と書かれた扁額の上、鬼板では獅子が牡丹の枝をくわえて真っ向を見据え、懸魚には2羽の鶴が雲中に遊ぶ。 |
後部鬼板の獅子は同じ図案ながら正面に比べて表情が柔和である。後部懸魚には浪の中に亀が泳ぐ。左右の脇障子には |
右に天狗と牛若丸、左には登龍門が付いている。 |
さて、四周に巡らされた欄間8枚がこの屋台のシンボルであろう。正面右側は東京葛飾の博物館より写真出展の依頼を受けた |
もの「青砥藤綱滑川の十文」である。左側には「楠正成・正行親子の櫻井の別れ」とそれぞれが氏子連への代々伝わる教訓か。 |
右側面には「牡丹に獅子」が2枚、左側面は「桐に鳳凰」「松竹梅に鶴亀」、後部欄間は「雲にオシドリ」「浪にオシドリ」の以上 |
8枚が彩色されて描かれている。 |
![]() |
山車正面鬼板と懸魚 「龍」 |
2,本町一丁目(東本町) |
<彫刻詳細> 正面鬼板 「龍」 正面唐破風懸魚 「龍」 中備大瓶束 鰭「牡丹」 向拝柱木鼻「振向獅子」 |
正面虹梁 蟇股「若葉」 左右虹梁 蟇股「若葉」 正面拳鼻「若葉」 正面台輪「浪に亀」 |
左右台輪「浪に千鳥」 右小脇「梅に鶯」 左小脇「竹に雀」 左右小脇羽目「上り龍」 「下り龍」 |
右欄間「松に鶴」 左欄間「梅に錦鶏鳥」 後部欄間「桐に鳳凰と麒麟」 左右後部三味線胴「龍」 |
後部台輪「浪に亀」 囃子台内部虹梁「若葉」 囃子台内部欄間「龍虎」 左右後御簾脇「松に鶴」 |
鬼板刻銘 彫刻師 板倉 聖峯 作之 昭和十二年五月 |
後部土台刻銘 昭和拾二年六月之作 設計施工 米山 元次郎 |
富士市吉原祇園祭で天神社の氏子町内である。山車清掃日の撮影チャンスは祭典1週間前の日曜日に殆どの町内が行う |
ため、急いで回っても何町内も1日では回りきれない。この日本町一丁目は3ヶ所目であったので訪問時には清掃が終わって |
いて山車小屋に格納されていた。町内の方のご親切により小屋のシャッターを開けていただき撮影する。さすがにもう1度 |
道路まで出してほしいとは言えない。すでに飾りつけもされていて幕や提灯のため彫刻が見えにくいところもある。また、山車 |
後部の方は小屋の中ぎりぎりに納まっているもので、後方上部や土台あたりが撮影できない。 |
シャッターが開きその雄姿が見えた時、正面の龍に圧倒された。吉原の町に生まれて一時期の郷里を離れていた時を除き、 |
ほとんど毎年見てきたつもりの祇園祭の山車で、これ程の彫刻があったとは全く気づかなかった。今までは祭全体を楽しんで |
いたのかもしれない。無論それはそれで理屈抜きでいいことではある。しかし師の作品に触れてきてからは、祇園祭の歴史・ |
由来を抜きにしてただ祭気分に浸っているわけには行かなくなった。山車とは本来柱や鉾の先に付けた御幣・榊など神の依代 |
となるものをいった。そして祇園祭は貞観11年(869)に全国に蔓延した疫病に対して鉾を立てて牛頭天王を祀り、6月14日に |
神輿を神泉苑に送ったのが始まりとされている。 |
吉原祇園祭は過去天候不順なこの時期から1ヶ月遅らせて7月に実施されたこともあった。また、現在では市民の休暇の関係 |
で6月第二土曜・日曜日になっている。しかし、本来の歴史的観点から言えば6月14日に実施すべき神事ではないかと思わ |
れる。山車正面の龍をじっと凝視しながらふとこんなことを考えてしまった。 |
板倉師の日記によるとなぜか昭和8年の6月に鬼板と出てくるが、今目にしている山車は昭和12年制作のものに間違いは |
ない。ここ本町一丁目の龍もやはり鬼板と懸魚で二匹が睨み合う構図である。大きさにも目を奪われるが、何といっても |
ワインカラーの色艶がすばらしい。 |
あまりに龍の存在感に圧倒されるが、他の彫刻も見逃してはならない。正面の虹梁蟇股を挟んで木鼻の「獅子」小脇羽目の |
「上り龍」「下り龍」下回りが「浪に千鳥」「浪に亀」が付き、三味線胴の「龍」と欄間左右の「松に鶴」「梅に錦鶏鳥」そして後部の |
「桐に鳳凰と麒麟」等々手の込んだ細工が豊富である。囃子台に入ってみると他ではあまり見られなかった内部の欄間にも |
彫刻が施され師の力の入れようがわかる。後部土台に設計者の銘が刻まれているのを見つけ、町内の方の許可を得て |
最上部である鬼板部分の裏を確認すべく山車の屋根に上る。やはりそこには板倉師の銘があった。 |
![]() |
山車左小脇羽目 「上り龍」 |
3,本町三丁目(西本町) |
<彫刻詳細> 正面鬼板「龍」 正面唐破風懸魚「龍」 中備琵琶板「雲に鶴」 向拝柱木鼻「振向獅子」 |
正面虹梁 蟇股「若葉」 左右虹梁 蟇股「若葉」 正面拳鼻「若葉」 正面蹴込「浪に鯉」 |
正面台輪「浪」 左右台輪「浪」 「浪に鯉」 右小脇「松に鶴」 左小脇「梅に蓑亀」 |
左右小脇羽目「上り龍」 「下り龍」 左右後部欄間「桐に鳳凰」 三味線胴右「竹」 |
三味線胴左「松」 三味線胴後部「梅」 後部御簾脇「登龍門」 後部土台「渦」 |
刻銘 昭和廿九年六月 祇園祭造之 本町三丁目区民一同 区長 左海 豊 |
請負者 若林木工所 大工 瀧沢 隆一 彫刻師 板倉 聖峰 |
富士市吉原祇園祭で天神社の氏子町内である。山車彫刻の撮影は通常山車小屋に格納されているので、わざわざお願いして |
小屋から出してもらうか、祭典時に撮影する他ないのである。しかし個人の依頼ではなかなか小屋から出してもらうわけにも |
いかず、そこで祭典の時に撮影するしかなかったが、当日は山車も幕がかけられ提灯が付けられ、彫刻の細部が見えにくい |
ものである。全体像は味気ないものになるが、装飾のない裸の状態が一番彫刻の細部まで撮影できるのだ。だいたい祭典の |
1週間前の日曜日に各町内が山車の清掃飾りつけをするようである。その機会に訪問しお願いをしてみた。 |
天神社境内で本町三丁目は準備をしているところであった。まず正面の龍が目を引く。本町一丁目よりやや小ぶりに見えるが、 |
しかしその表情はやはり迫力を十分に感じさせるもの。唐破風上鬼板部分に上からぐっと見下ろす龍、懸魚には下から上を |
ぐっと睨み返す龍と、この構図は本町一丁目・東本通と共通している。中備の琵琶板には「雲に鶴」がはめられ、向拝柱に「振向 |
獅子」虹梁に「若葉」が付く。土台回りを見ると正面台輪には「浪」左右の台輪には「浪に鯉」とよくある図案だ。また後部に回り |
こみ人形を迫り上げる胴山部分には細密な図案が施されていた。三味線胴は左右後と「松」「竹」「梅」、御簾脇には「登龍門」 |
しかし何といっても左右小脇羽目にある「上り龍」「下り龍」を見逃してはならない。龍が春分に大海から天を目指して昇っていく |
さま、秋分に雲海から降りて淵に帰るさまが大変よく表現されている。 |
後の框から中を覗くと小さく彫ってある銘を確認することができた。昭和29年6月の作品である。また区長名も彫られていて、 |
昭和11年に衝立の欄間を彫ったという記述が日記に残っている浪花軒のご主人である。師の日記には当初西本町の山車は |
昭和8年6月に出てくるが先代の山車の制作時だろうか。昭和3年の御大典奉祝記念の写真には眺望館の前で、今の江戸型 |
山車ではなくて御殿屋台が写っている。資料がないのでなんとも言えないが、現在の山車は3代目なのか昭和8年には2代目 |
の修復なのか不明である。 |
![]() |
山車正面鬼板 「龍」 |
4,東本通一・二丁目(東本通) |
<彫刻詳細> 正面鬼板「龍」 唐破風懸魚「龍」 中備琵琶板「雲に鶴」 向拝柱木鼻「獅子」 |
向拝柱左右「上り龍」 「下り龍」 二重虹梁上 繋虹梁 蟇股「若葉」 向拝虹梁「牡丹」 |
正面拳鼻「若葉」 正面台輪「浪に鯉」 左右台輪「浪にウサギ」 「浪に亀」 左右小脇「鍾馗」 |
右前小脇羽目「琴高仙人」 右後小脇羽目「費長房仙人」 左前小脇羽目「通玄仙人」 |
左後小脇羽目「鉄拐仙人」 右欄間「ヤマタノオロチ」 左欄間「クシナダヒメ」 後部欄間「スサノオ」 |
左右後部三味線胴「雲」 右後部御簾脇「上り龍」 左後部御簾脇「下り龍」 土台持送り「若葉」 |
刻銘 昭和参拾年六月吉日 富士市本市場 製作者 彫刻師 板倉 聖峯 |
富士市吉原祇園祭で八坂神社の氏子町内である。山車の清掃日訪問して撮影する。ただし時間の誤りで終わった後に伺った |
ため、わざわざ町内の方のご協力で小屋から出して、その上夜間であったので照明まで用意していただき大変に恐縮で |
あった。 |
夜間撮影など不慣れな素人カメラマンの技量では彫刻の細部まで写すことは非常に難しい。師の日記によると昭和11年 |
12月に「牡丹に狂い獅子」と記述されているが、この山車のどこを探しても見当たらない。内壁に刻まれた銘によると昭和 |
30年6月に新築され、先代と同様板倉師の手によって彫刻されたものと思われる。 |
山車の形は江戸型で前部に唐破風付の囃子台、後方は人形を迫り上げる胴山となっていて、東本通のシンボルとして |
人形台に「御神境」が祀られている。初回訪問が夜間になってしまったことから、2年後の祭典当日の昼前に再撮影を試みる。 |
引き回し準備のため小屋から出発位置まで引き出されたところで写すことにした。 |
正面唐破風上下、鬼板と懸魚の向かい合った龍は本町一丁目・三丁目の2台と同じ構図である。懸魚奥の中備で琵琶板に |
雲上に羽ばたく2羽の鶴、二重虹梁と繋虹梁は若葉だが、正面の虹梁には木鼻の獅子と呼応するように牡丹の大輪が刻まれ |
ていた。また、向拝柱は右に「上り龍」左に「下り龍」の巻龍が柱の丸彫りとなっている。 |
後部の胴山部分にはそれぞれ神話や中国故事などが飾られているが、それが何を表しているのかタイトルすら皆目わからず |
とりあえず自分に宿題を課して撮影に専念。帰宅してからわかったことだが、右側小脇羽目には鯉に乗る「琴高仙人」と鶴に |
乗る「費長房仙人」、左側には瓢箪から駒の「通玄仙人」と口から魂を出す「鉄拐仙人」が描かれている。 |
三味線胴下の欄間は八坂神社の祭神であるスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治している図案。元来は八坂神社の祭神と |
しては牛頭天王であったが、スサノオノミコトが天降りしてから習合し祀られてきたのである。しかし、明治維新の神仏分離令 |
により祭神をスサノオに改められたものだ。 |
元は寺町といわれた時代、東横町(東本通三丁目)と一体で天神社の氏子であったが、安永元年(1772)に神輿の渡御の |
もめごとで氏子は2つに分かれ東横町は独自に八幡宮を勧請し新たに神輿を造ったということである。現在の吉原祇園祭は |
新吉原宿の天神社と享保年間に天神社の氏子から分かれ木之元神社の氏子になった西8町内、後は依田原の山神社と |
合わせ5社(近年和田の八幡宮が加わり6社)の合同祭典となった。 |
しかし、元々天神社はニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが主祭神であり、やがて寛永年間に菅原道真公を合祀して現在に |
至る。祇園祭という名称での祭典である限り、天神社(天満宮)ではなく牛頭天王と集合したスサノオを祭る神社が主体で |
あらねばならぬはずである。すなわち安永元年東横町が八幡宮を造立した後、寺町は嘉永6年(1853)に牛頭天王社を |
創建し、やがて八坂神社となり祇園祭の形としての祭りが始まったのではないかと推測されるものである。 |
![]() |
山車正面蟇股・唐破風懸魚 「龍と飛龍」 |
5,宮町 |
<彫刻詳細> 正面唐破風上「鬼板」 唐破風懸魚「飛龍」 蟇股「龍」 正面虹梁 拳鼻「若葉」 正面土台「浪」 |
正面小脇右「上り龍」 正面小脇左「下り龍」 右小脇羽目「松に孔雀」 左小脇羽目「登龍門」 |
右欄間「雲に尾長」 右窓欄間「牡丹」 左欄間前「雲にオシドリ」 左欄間後「水にオシドリ」 |
上部高欄下前後「浪に千鳥」 上部高欄下左右「浪に鯉」 左右後部土台「浪に千鳥」 |
持送り「浪」 右脇障子前「浦島太郎」 右脇障子裏「浪」 左脇障子前「浦島太郎と龍宮城」 |
左脇障子裏「浪と龍宮城」 三味線胴「龍」 |
富士市吉原祇園祭で天神社の氏子町内である。本町三丁目の撮影が終わり、すぐ近くの駐車場で清掃しているところを撮影 |
させていただく。 |
刻銘も墨書もないが、師の日記では昭和11年5月から6月にかけて彫刻したことになっている。しかし聞くところによると、昭和 |
11年の山車の土台から上を昭和30年代に造り替えたようでもある。そう言われればじっくり見てみると、土台部分から下と |
三方に巡らされた高欄から上と、いくらか木の色や材質が違って見える。だが本当にそうなのか素人目では確証が持てない。 |
ただ師の記述から実物と照合していてほとんどが記述通りの図案ということは、先代の山車と同じように現存する今の山車も |
彫刻したのだろうか。 |
1点1点、確認していくと龍の表情や作風、彫り具合から間違いなく師の作品であると思われる。本町一丁目などよりやや |
小ぶりな感じがする変形江戸型の山車だが、前部の囃子台は小さく唐破風下の向拝柱もない。胴山部分を大きくとって、上部 |
に回した高欄の上前方で太鼓を叩き、後方では「鏡獅子」の人形を迫り上げる。 |
山車彫刻を見てみよう。まず正面唐破風上に鬼板、懸魚の飛龍が見下ろし、相対して唐破風奥の蟇股の龍が珠をしっかり |
握って見上げている。そして、そのすぐ下の小脇にも「上り龍」「下り龍」が付き、これだけ4匹もの龍を前面に飾っている山車 |
も珍しいのではないだろうか。 |
左右の小脇羽目や窓欄間にも飛魚や牡丹、尾長やオシドリなどが彫られている。師の日記上で飛魚としてあるが魚の形と |
背景から言って鯉が龍門を越えて昇天する様子だろうと思う。四周の土台に付いた「浪に千鳥」とともに宮町の山車を引き |
立たせているのだ。 |
もう1つの特徴は左右に突き出た脇障子である。「浦島太郎」が龍宮城への行きかえりを裏表合わせた彫刻で透かし彫り |
されている。お伽話の浦島太郎を題材にしたのは不老不死の願望もさることながら、古事記における山幸彦の話を思い出す |
であろう。浦島伝説は全国各地に微妙な違いがあるにせよ広がっている。しかし史料的に見て古事記の記述がその原点では |
ないのかと思われるのである。山車彫刻における浦島太郎は不老不死の願望とともにやはり海神を表す火伏せの願望も |
含まれるのではなかろうか。 |
![]() |
山車右側面台輪 「浪に鯉」 |
6,日吉町 |
<彫刻詳細> 正面鬼板「牡丹に獅子」 唐破風懸魚「鳳凰」 中備大瓶鰭「浪に鯉」 正面欄間「鶴亀」 |
向拝虹梁「若葉」 向拝柱木鼻「振向獅子」 正面小脇右「上り龍」 正面小脇左「下り龍」 |
正面台輪「浪に鯉」 正面腰欄間「浪に千鳥」 拳鼻「若葉」 右欄間「雲」 「浪に鶴」 |
左欄間「雲」 「浪に亀」 左右持送り「若葉」 左右台輪「浪に鯉」 左右腰欄間「浪に千鳥」 |
右脇障子「松に孔雀」 左脇障子「松」 後部鬼板「獅子」 後部懸魚「鳳凰」 |
後部欄間「松に鶴」 後部中備大瓶鰭「菊」 後部台輪「浪に鯉」 後部腰欄間「浪に千鳥」 |
後部御簾脇右「獅子の子落し」 後部御簾脇左「牡丹」 三味線胴「龍」 「雲」 |
富士市吉原祇園祭で木之元神社の氏子町内である。初回訪問の年は朝から雨模様で心配されたが、昼前より雨が上がり |
曇り空ながらもやや明るい兆しが見える。6月という季節柄雨天になる確率は高いが、やはり歴史的に見て本来6月14日に |
行うものだと思う。商業的・時間的に現在は14日に近い第2土曜から日曜日と決められたが、それはそれで仕方のないこと |
かもしれない。 |
日吉町の山車は信用金庫の駐車場でシートを被せたままになっていた。近くで待機していて知人より情報が入る。予定の |
時刻に引き回しを行う、その30分前にシートをはずすそうだ。その30分間が撮影のチャンスである。早速山車置場に急行 |
すると丁度シートを取り外すところであった。 |
だが、未だ天気がはっきりとしないため、高欄周りに掛けられた提灯に透明なビニールが巻かれていて、下回りの彫刻が |
撮影できない。見える範囲で師の日記に記されている図案と照合していく。唐破風懸魚の「鳳凰」欄間の「雲」小脇の「龍」 |
台輪の「浪に鯉」脇障子の「松に孔雀」腰欄間の「浪に千鳥」三味線胴の「龍」等々記述のある図案はいずれも確認できる。 |
昭和12年4月から6月に彫られた作品だということは本町一丁目と全く重なり、同時進行で作業していたことになる。師の |
日記を検証していくとこういうことは度々出てきて、図案が混同しないかと不思議に思われ、また徹夜作業も厭わないその |
体力と集中力には敬服するものである。弟子にあたる坪井師に聞くところによると、構図を頭の中で考え下絵は書くが |
直接彫っていくそうだ。荒彫りは師匠がやり仕上げを弟子に任せて指導していく。板倉師の指導は伊藤師匠と違い、決して |
手を上げることはなかったと語られていた。 |
さて、撮影が不十分であったことから、翌年の祭典時に再び訪問して撮影。今年の祇園祭は晴天であった。昨年は短時間 |
であったのと一部覆われていたところもあってすべて取り直しを行う。四周台輪に見えた浪に泳ぐ鯉が何ともいい。また |
腰欄間には浪と戯れる千鳥が確認できた。日記には出てこない鬼板には正面が牡丹に獅子が付き、後部の鬼板の獅子は |
ちょっと上目遣いでユーモラスな表情をしている。そして正面欄間に「鶴亀」、後部欄間は「松に鶴」で、御簾脇には |
「牡丹」と「獅子の子落し」であろうか。昨年に続き今年は土台から内部まで捜したが銘も墨書も見当たらず、ただ日記との |
照合のみであったが師の作品に確定してよいだろう。 |
![]() |
山車後部羽目板 「桃太郎」 |
7,昭和通 |
<彫刻詳細> 正面 虹梁 持送り「若葉」 向拝柱木鼻「獅子」 向拝柱左右「上り龍」 「下り龍」 |
内部虹梁 蟇股 土台拳鼻「若葉」 台輪「浪」 高欄下 左右小脇 蹴込「桃太郎」 |
右側面 腰欄間「浪に鯉」 虹梁 蟇股「若葉」 虹梁木鼻「獅子」 |
前後台輪 高欄下 前後小脇羽目 前後脇障子 鬼板 唐破風懸魚 三味線胴「桃太郎」 |
左側面 腰欄間「浪に鯉」 虹梁 蟇股「若葉」 虹梁木鼻「獅子」 |
前後台輪 高欄下 前後小脇羽目 前後脇障子 鬼板 唐破風懸魚 三味線胴「桃太郎」 |
後部 土台「浪に鯉」 台輪 羽目板3枚 三味線胴「桃太郎」 |
富士市吉原祇園祭で木之元神社の氏子町内である。初回訪問時は天候に恵まれず、朝から小雨が間断なく降り続いていた。 |
前日より小屋から出された山車が所定の場所に出されているはずで、まだ氏子連の集まる前の早朝に撮影するのがベストで |
ある。 |
しかしながらそぼ降る雨に山車はすっぽりとシートに覆われていた。引き回しは昼からなので直前まで待機。昼前に空は明るく |
なって少しだけシートがはずされている部分があり、写せるところだけはと思い撮影する。その後、日吉町の情報がはいり |
翌年に期す。 |
次の年は状態がよく祭典当日の午前中、準備でだいぶ人は集まってはいたが、邪魔にならないように撮影することができた。 |
師の日記に記述はないが、材木仕様書として材料の寸法が一覧書きしてある。この仕様書のみが残っているだけなので図案 |
など詳細については不明であるが、師の作品に間違いはなく制作年は昭和31年らしい。 |
山車の形について見てみると、基本的に江戸型の山車ではあるが変形で前山部分は通常の唐破風屋根ではなく、陸屋根状の |
囃子台になっている。また、後部の框部分が羽目板になり出入口が後部左右になる。その上に銅板の軒唐破風が付き胴山と |
なって他ではあまり見られない改良型とでも言うのだろうか。胴山の迫り上げ人形台には「桃太郎」が乗り、山車全体を桃太郎 |
の誕生から凱旋までの鬼退治一大絵巻となっている。 |
彫刻細部を観察していく。囃子台高欄下と下の台輪部分には桃太郎が出発してから鬼が島までのストーリーが描かれている。 |
また、舞台の蹴込には誕生のシーンが、その上小脇両側は翁と媼が「山で芝刈り」「川で洗濯」と出会いのシーン。小脇羽目 |
から脇障子にかけて桃太郎と供についた「犬」「猿」「雉」の姿がある。 |
このようにまだまだ細部にわたっていわゆる桃太郎づくしになってはいるものの、ポイントには定番の彫刻が付けられた。正面 |
虹梁に「若葉」向拝柱木鼻と後部左右に「獅子」、腰欄間には「浪に鯉」が見える。そして東本通同様の向拝柱が「上り龍」 |
「下り龍」の巻龍が丸彫りになっている。 |
吉原祇園祭の屋台・山車彫刻のテーマが昔話や民話的なものが多いのはなぜだろうか。昭和通の桃太郎を始め、六軒町の |
金太郎、西仲町の文福茶釜等それぞれ昭和30年前後に制作された山車にこのような人形を乗せたものが多い。これに対し |
富士宮祭りに繰り出す山車は神話・伝説をテーマにしたものが多く見受けられる。個人的な好みもあるが、神事としての山車 |
を考えるならば神話に登場する人物をシンボルにした方がふさわしいのではないだろうか。 |
![]() |
![]() |
![]() |