山 中 城
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第1回 現地踏査記録 |
日時 2004年3月28日 |
コース 富士市(自宅) 9:00 → R1 → 沼津 → 三島 → 山中城址 10:00 |
参考地図 1/25000地形図(三島) 現地住宅地図(ゼンリン) |
踏査地点 御馬場曲輪 岱崎出丸 すり鉢曲輪 |
宗閑寺 箱井戸 田尻ノ池 |
元西櫓 西ノ丸 帯曲輪 西木戸口 |
行動記録 9:00自宅を出発。国道1号を東進して三島から箱根路に入り、富士から37kmの地点に山中城址が |
ある。国道1号を挟み南北にかなり大きな遺構があるようだ。駐車場は押しボタン式の横断歩道から |
本城郭に入る所に数台と、南側岱崎出丸入口の茶店前に数台置けるスペースがあるが、ここからやや |
下った城址大駐車場に駐車した方が安心である。スペースは相当広く観光バスも何台か置けるように |
なっている。10:15駐車場の案内図を見て出丸方向南東側の橋を渡る。出丸北側の堀らしきところに |
架かるコンクリート製の橋から上がった所で箱根旧街道にでる。有名な石畳の道だ。石畳の説明板に |
目を通してから東の出丸入口に回りこむ。茶店上の入口のコースに従って曲輪面に上がってみると、 |
かなり広いまるで芝生広場のような所だ。 |
10:35南西方向に広がる広場状のやや高くなった所が御馬場曲輪である。ここから北方向を見ると国道 |
1号と箱根旧街道が谷筋となって対岸に本城郭の連郭がある尾根がやはり南西方向に伸びている。その |
上のほうには箱根峠から海の平を通って三国山への山並が見えている。 |
御馬場曲輪は岱崎出丸の中央部分に南側を抜いたコの字状にめぐる土塁に囲まれた南北二段の曲輪 |
である。この西側の土塁の下には南北に大きな堀が切ってあり目測で幅深さ共10m前後だろうか。法面 |
の角度は大きく堀底から御馬場の西側土塁上に上がるのは非常に困難であろう。曲輪の南北約40mを |
北側に掘って堀留め、北側土塁の下に別の北堀があり帯曲輪に落ち込んでいる。復元された土塁の現状 |
で高さ1.5m位あり岱崎出丸全体で一段高くなった御馬場曲輪は山中城における前線基地の中心部を |
なしていた。 |
10:55御馬場の下段から南側を通る通路や堀を越えると、出丸の西方に緩やかに下った曲輪面より南に |
一段下がった所がある。ここをはじめこの岱崎出丸にはいくつかの建築途中の部分が見られる。上方の |
大軍が押し寄せてくるのにいかにも急ごしらえで作っていたようだ。 |
御馬場西側の堀からおよそ150mもあろうか、東西に長く広い曲輪が続いてその先にまるで「あり地獄」を |
思わせるようなすり鉢状の曲輪がある。ここはこの山中城の最前線であり、すり鉢曲輪見張台からは眼下 |
に三島から沼津、韮山方面までが一望できる所である。 |
12:00岱崎出丸を一周して休憩。12:30出丸から本城郭に移る。12:40出丸北端から国道1号を渡って |
旧街道を入るとすぐ南櫓跡があり、旧街道が続く先は三ノ丸が駒形諏訪神社入口の鳥居まで広がっている。 |
南櫓は現在芝切地蔵尊が祀られた小堂が建っている。そこから旧街道が国道と合流するあたりは住宅が |
建ち並び、宗閑寺と山中公民館のあるあたりが三ノ丸曲輪の中心部であろう。 |
宗閑寺の南側と西側には墓地があるが、その中には天正18年(1590)秀吉の大軍と戦って亡くなった |
北条軍の諸将に混じって上方先鋒隊であった一柳直末の墓碑も建立されている。 |
13:10宗閑寺に隣接する公民館の脇を下っていくと箱井戸と田尻ノ池が見えてくる。箱井戸は築城時から |
湧水があり飲料用として使用されていたようであり、南側の田尻ノ池とは一線を画していた。井戸から出た |
水を南側に溜めて馬用としていたのではないかと思われる。この箱井戸の水際から三ノ丸までは、丁度 |
宗閑寺裏の墓地にあたるが5mくらいも高さがあろう。箱井戸と田尻ノ池の間を抜け二ノ丸の南下を通って |
土橋の下を元西櫓に登る。 |
元西櫓は下の堀底から見上げておよそ10mは高さがあるだろうか。曲輪面に上ってみると南北に長い |
三角形をしていて、東は架橋の向こうに二ノ丸へ西は今登ってきた堀を挟んで西ノ丸に続く。この堀も |
二ノ丸同様に架橋があったにちがいない。 |
元西櫓を降りて水曲輪から西ノ丸の北側を回りこんで帯曲輪の北端に出る。障子堀を左下に見ながら |
西櫓をぐるっと囲むように帯曲輪があり、ここがこの本城郭の西端になるわけで富士山・愛鷹山の眺望が |
すこぶるよい。 |
最西端の斜面はやや急であり西木戸跡ということではあるが今はその面影は全くない。西木戸の南から |
現在国道に下りる道がついており、少し下った所が「エビノ木」と言われていた所であろうか、ここから正面に |
岱崎出丸の全景を見ることができる。 |
元の帯曲輪に戻り今度は南回りで西ノ丸の土橋を渡り、大手門から西ノ丸の曲輪面に出る。東西に長い |
長方形というより楕円に近い形をして本城郭中で一番広い曲輪であり、その西端には西櫓を見下ろすばかりに |
物見台が土塁の高さまで作ってある。調査では建物跡がなかったようであるが、何かこの物見台のスペースに |
建っていてもおかしくないような雰囲気がある。物見台の南側及び北側はしっかりと畝堀で囲み、西側の一段 |
低い西櫓との間は幅の広い障子堀である。 |
西ノ丸を大手口から降り南側を三ノ丸堀へと進む。調査報告書に記載されていた「丸井戸」への入口がわか |
らない。丸井戸・厩を今回はあきらめて三ノ丸堀の中央畝を通り国道に出る。 |
14:30出丸下の旧街道を下りすり鉢曲輪の下に行ってみる。国道と合流する個所が出丸先端のすり鉢曲輪 |
の下にあたるが、現在は私有地になっていて立ち入りを遠慮する。旧街道の途中に御馬場曲輪下の帯曲輪 |
へと入れる道があるが、ここもロープが張られ立入禁止となっている。この岱崎出丸に取り付くのにどこから |
攻めたら登りやすいかを旧街道を往復しながら探ってみる。なかなか土塁の法面を見上げても、先ほどの |
御馬場曲輪下のあたりか、すり鉢曲輪の西端ぐらいしか登るのに適した場所はなさそうである。 |
行動時間 約4時間30分 |
第2回 現地踏査記録 |
日時 2004年5月2日 |
コース 富士市(自宅) 8:00 → R1 → 沼津 → 三島 → 山中城址 9:10 |
参考地図 1/25000地形図(三島) 現地住宅地図(ゼンリン) |
踏査地点 三ノ丸 宗閑寺 箱井戸 田尻ノ池 |
駒形諏訪神社 本丸 兵糧庫 天守台 北ノ丸 二ノ丸 |
元西櫓 水曲輪 西ノ丸 西櫓 帯曲輪 西木戸口 |
丸井戸 厩 |
行動記録 8:00に自宅を出発し国道1号を三島に向かって山中城址着が9:10。今回は前回に回りきれなかった |
本丸・北ノ丸を中心に踏査してみたい。 |
9:20駐車場に車を置き三ノ丸より宗閑寺本堂裏の墓地に入る。本堂西側に小高い丘状の部分があって |
その北側に墓地が広がっている。南端に立つと目の下は三ノ丸新堀が土塁跡までせり上がってきて、 |
三ノ丸木戸と思われる部分から土塁が墓地の高台に伸びてきている所を切断している。この三ノ丸曲輪 |
面の高台から西端は箱井戸と田尻ノ池にかけ切れ落ちているが、向かい側の二ノ丸まで欄干橋があった |
とすれば西端に一段下がった所から箱井戸の上を二ノ丸門の下までであったのだろう。 |
9:30公民館から国道に出て本丸に向かう。北の方に5〜600mばかり行くと城址の石碑と鳥居が建って |
いる。ここから入っていくと右側は上部から堀が国道に向かって落ちてきていて、その南側に本丸東土塁 |
が伸びている。階段を登りきった所が駒形諏訪神社だ。境内には社が2棟と大きなカシの木が立っていて |
県指定の天然記念物となっているアカガシの木と柵で囲われている前の説明板によって記されている。 |
社は正面に駒形諏訪神社本殿とその脇に八坂神社もあって中を覗くと神輿が納められていた。 |
神社の上段にひときわ高い矢立の杉が聳え、その横を三段になった本丸の上段に向かう。 |
本丸のスペースは北西から南東にかけおよそ50m四方位の傾斜地を三段に仕切ってやや広い上段と |
中段が本丸の曲輪、下段は兵糧庫があったとされている。本丸土塁は北西に向けコの字状に作られ、 |
北土塁は西端の土橋部分から北端の天守台にかけ高さ4〜5mの威容を誇る大土塁になっていて、東土 |
塁と西土塁はそれぞれ約2m程の高さで兵糧庫まで下っている。 |
北隅に作られた天守台は現在では杉・桧の樹林が高く眺望があまりきかないが、標高586.4mの櫓台 |
上は当時としては甲・駿・豆を一望できる環境ではなかっただろうか。上段から1〜2m下がった中段は |
南北幅がやや狭い長方形であり、またさらに一段下った下段は東側に先ほどの駒形諏訪神社の境内に |
なって、中央部には建物跡の礎石穴が整列している。発掘調査報告書によると洗い場、下水溜の溝と中 |
央部に幅50cmの長い排水溝が認められたようであるが中央排水溝のみが残されている。下段南側に |
整列した礎石穴の西側に土塁で区切られている部分があって弾薬庫跡といわれているが、今では桧の樹 |
林帯の中で全くわからない状態だ。 |
再び上段に戻り天守台の下、大土塁を切った所の架橋を渡り北ノ丸に入る。本丸北堀はそんなには深さ |
はないようだが、大土塁の威容が北ノ丸からはかなり迫力を感じさせる。曲輪面は東西に長い長方形で |
本丸天守台の対岸部分で直角に南方にせり出し、そのまま帯曲輪となって本丸東堀に沿って下ってい |
る。調査報告書によると帯曲輪に続く部分には搦手門となる四脚門があったようで、おそらくここから北西 |
側にかけてコの字状にぐるりと土塁を廻らしてあったのだろうが、現在では北土塁として2m程の高さを |
保っているものの東西両側はその面影はない。 |
北ノ丸北堀は北西に伸びる尾根を切ったように掘られており北端で直角に曲がり東堀となって南下して |
いる。また、西堀はやはり北堀から直角に曲がって本丸堀と帯曲輪で分けられたように西側に伸び西ノ丸 |
北側の自然の谷に落ちているようだ。 |
再び架橋から本丸に戻り土橋を渡って二ノ丸に入る。発掘調査の初期の頃は北条丸と呼ばれていたこの |
二ノ丸はかなり広い。目測でおよそ東西80m、南北はその半分の40mくらいだろうか長方形で北から |
南へ緩やかに傾斜している。 |
この広大な曲輪の防御として、まず北土塁と西側に二重になった土塁が認められる。北土塁は現状高さ |
2.5mで北ノ丸西南部の帯曲輪と二ノ丸北堀で遮断され、土塁の両側は方形の盛土状にそれぞれ南側 |
に曲げてある。東側の二ノ丸櫓台からは曲輪の傾斜面を通してはるか韮山方面が望め、西側の二ノ丸物 |
見台は三ノ丸から二ノ丸門をくぐって入ってきた突き当りになる。この下は小さな枡形らしく二重になった |
土塁間の通路となったせり上がり部分、元西櫓から架橋を渡り二ノ丸に入る虎口にあたる。本丸との間 |
には 北側は櫓台と土橋が認められるが、土橋から南下している畝堀である本丸西堀を挟んで二ノ丸側 |
には土塁はないようだ。 |
曲輪の三方を取り囲む堀は東の本丸西堀はそうでもないが、二ノ丸西堀は法面がきつく畝の区画が |
はっきりとして元西櫓への架橋の脚台跡が発掘によって明らかになった。西堀は架橋から北側は二ノ丸 |
北堀と合流 して水曲輪に下っていて、発掘調査時にもかなりの湧水があったようでここの部分は本城郭の |
水瓶 となっていたのではないだろうか。 |
物見台から南に箱井戸へと下っていく。両側は二ノ丸西土塁が二重になった所でその間を通ると土塁の |
高さで周囲は全く見えない。物見台から左右に2度軽く折れ曲がって二ノ丸門跡に着く。箱井戸を渡った |
すぐ上に門跡はあるが、発掘調査では柱穴から見て四脚門ではなく穴は2ヶ所しかなかったというから |
おそらく簡易な木戸程度のものであろう。 |
11:50広々とした二ノ丸にて休憩昼食。12:35箱井戸に下り田尻ノ池から元西櫓の堀道を通り水曲輪 |
に出る。北ノ丸南西部に張り出した帯曲輪の末端から水曲輪と二ノ丸西堀、架橋を見上げると水曲輪の |
上部の堀畝が大きいのがよくわかる。 |
西ノ丸北東部から搦手門をくぐり広い曲輪を通り物見台に上がる。西側を見ると一段下がった西櫓の周 |
囲を畝堀がとり巻き、西櫓がまるで海上に浮かんだ島のように見える。おそらくこの物見台の下あたりか |
ら西櫓まで引き橋など渡してあって、北条流縄張りの特徴である角馬出しとしていたのであろう。物見台 |
からの 眺望はすこぶるよい。東側を振り返ると二ノ丸北土塁上に見える桧・杉の大樹の上に箱根外輪山 |
南方で海の平あたりだろうか、なだらかな尾根が北方に連なっている。南西側はパッと開け眼下の西櫓の |
向こうには韮山方面から戸倉・沼津・三島がよく見え愛鷹山の裾は長久保方面まで見通すことができる。 |
西ノ丸の土塁はそれほどの規模は感じられないが、外側が急で曲輪の内側はなだらかな法面になって |
いて、高さは1.8mくらいだろうか物見台を中心に南北へとぐるりと廻らされている。西ノ丸堀は南北が |
畝をもつ直線的なもので、西櫓との間は畝を交互にずらしたような二重の畝堀、いわゆる障子堀とよばれ |
る北条流縄張りのこれも1つの特徴である。 |
西ノ丸を大手口から降り西櫓に土橋を渡って入る。西櫓は本城郭の最西端で出丸すり鉢曲輪と同様に |
上方軍を迎え撃つ最前線である。上空から見た写真では西ノ丸からの馬出し機能であったことがはっきり |
わかるが、四周を畝堀でしっかりと囲み、その外側をさらに帯曲輪でガードしている。広さは南西に向け |
横20m、縦15mほどのはっきりとした長方形が見てとれる。曲輪面の土塁は高さは西ノ丸と同じくらいで |
1.8mだが、調査ではこの土塁上に1間ずつ等間隔の穴が見つかり、おそらく塀の柱穴であると思われ |
る。帯曲輪に移動して西端の斜面を覗き込んで西木戸の位置を確定したかったが、草付の結構な急斜 |
面ではっきりとわからない。 |
帯曲輪を三ノ丸方向に戻り丸井戸を捜す。田尻ノ池から三ノ丸堀に向かう途中で草を分け入って沢筋を |
降りていく。定かではないが厩の西下で細い沢が上がってきた源頭部あたりがそうであろうか水の溜りが |
見られた。元の道を戻り三ノ丸堀の堀留から厩に登る。ここはそのほとんどが畑地で全く曲輪の面影は |
ない。はっきりとどこまでが厩なのかもわからず、13:50あきらめて三ノ丸堀から駐車場に戻る。 |
行動時間 約4時間30分 |
第3回 現地踏査記録 |
日時 2004年5月8日 |
コース 富士市(自宅) 8:30 → R1 → 沼津 → 三島 → 山中城址 9:40 |
参考地図 1/25000地形図(三島) 現地住宅地図(ゼンリン) |
踏査地点 箱根旧街道 韮山辻 すり鉢曲輪(南斜面) 浅間平 富士見平 |
すり鉢曲輪 御馬場曲輪 一の堀 岱崎出丸(南斜面) |
三ノ丸 箱井戸 田尻ノ池 厩 丸井戸 三ノ丸新堀・旧堀 小浅間平 西木戸口 |
帯曲輪 西櫓 |
行動記録 第1回・第2回と目測により距離を測ったが、今回は歩測してみることにした。5mのメージャーを使って |
普通の歩幅で何回か測りその平均値は1歩が72cmであった。これを基に概算数字を作ってみることに |
した。 |
10:00駐車場から箱根旧街道に上がり岱崎出丸西端部下まで行く。国道1号に出合う地点、出丸の |
尾根が切れた所がおそらく「韮山辻」といわれていた所であろう。しかしガイド本に記載されていた馬頭 |
観音は見あたらない。「韮山辻」から尾根の先端を回り南に入っていく道があり、旧道跡の可能性を思い |
辿ってみることにした。林道状の部分がやがて農道に変わり結局キャベツ畑になって行き止まり。しかた |
なく「韮山辻」まで戻るがここから尾根を見上げると出丸先端部の南斜面がよく見え、樹林帯のかなり |
急斜面であることがわかる。 |
国道1号を渡り「山中城址の図」にある「浅間平」と思われる地点を捜す。創価大学のセミナーハウスが |
建つ地点は小高い丘状になって、ここからだと出丸先端部や本城郭西端部、韮山方面から元山中方面 |
まで非常に眺望がよく、なにか間違いなく陣場であったような感じがする。現在はこの下を国道1号の |
広い舗装道路が貫通しているが、400年余り前のこの土地は三嶋大社からの旧街道、沢地・元山中から |
韮山辻、そして韮山方面に下る道と北側に鎌倉古道が海の平までと南側に玉沢道が通っていたようで |
ある。当時の地形とは大幅に状況が変わっているであろうが、推測するにこの「浅間平」「富士見平」と |
国道1号を挟んで南側に平坦地があり、おそらくこの周辺に各隊の陣場があったのではないかと思わ |
れる。 |
創価大学東下の昔「水呑関」といわれた所から「小浅間平」を通り本城郭西端まではそんなに距離は |
ない。「水呑関」の北側に箱根旧街道の石畳があり、その北側一帯が「エビノ木」という地名と表示されて |
いたが、絵図を見る限り「エビノ木」は小浅間平の上部あたりである。ここで一柳直末が討死したとされて |
いることから、「エビノ木」はやはり西木戸南西下あたりなのではないだろうか。旧街道の石畳を富士見平 |
まで降り、国道1号を元の「韮山辻」まで戻って東側から出丸の曲輪面に上がる。 |
出丸東端の国道1号信号機より歩測開始。御馬場曲輪東土塁までの歩数は180歩であった。約130m |
〜140mくらいであろうか。御馬場曲輪を通り西土塁の北側からすり鉢曲輪のぐるりと回った土塁の西端 |
まで測るとこれは170歩である。東西に長い岱崎出丸は歩測上でおよそ300mあり御馬場曲輪がその |
中心部を占めることになる。 |
公園整備された現在ではかなり見通しがよいが、すり鉢曲輪西端から当時ではほとんど出丸の全体を |
把握するのは困難ではなかっただろうか。すり鉢曲輪の西端下は桧林で全く見えない。土塁を越え |
一の堀まで降りてみる。「韮山辻」のあたりから一の堀まで登ってくると、堀の西端に今では雑木とヤブ |
に覆われているが、盛り上がったコブ状の所があって何かここから物見でもしたような感じがする。 |
堀の中に入ってみると見上げる出丸北土塁の傾斜に圧倒される。当時の実際にはもっと深さがあった |
のだろうが、今ではそんなに深くは感じられない。調査報告書によれば16区画に分かれ1区画は平均 |
して8m程の長さであるらしい。堀底から土塁の急な法面を上がり突入することは結構厳しかったことが |
うかがえるものである。 |
すり鉢曲輪から東へ移動しながら歩測していく。すり鉢北側部分の西端からすり鉢曲輪見張台30歩で |
20m強。一の堀の長さはおよそ200歩で150m弱。御馬場北堀の長さ、御馬場西土塁から一の堀東 |
堀留までは27歩で20mといった具合である。 |
11:50御馬場曲輪にて休憩・昼食。12:20出丸の東側から南側に回ってみることにする。東端の国道 |
信号機から尾根の南側を巻くように農道が入っていて、出丸先端部のほうに向かって歩いてみる。岱崎 |
出丸のあるこの尾根の南斜面はかなり急勾配で農道の下は来光川まで切れ落ちている。御馬場曲輪の |
南下あたりまでくると韮山方面が霞んで見えた。どうやら行き止まりの感じがしてきて、途中尾根上に |
上がる個所があったので上ってみるとすり鉢曲輪の南側の武者溜にでた。 |
13:00もう一度歩測を始める。今度は出丸の先ほどよりやや中央よりを測る。すり鉢曲輪土塁西端から |
見張台まで40歩、すり鉢曲輪見張台から出丸中央にある見張台までが60歩、ここから御馬場曲輪西堀 |
西端まで46歩で合計146歩105m程であった。距離が長ければ長いほど歩数の誤差がでるのは仕方 |
ないのであるが、だいたいの距離が掴めるのではないかと思う。出丸を後に三ノ丸に向かうが、三ノ丸 |
木戸を推定して出丸西端から通して歩測すると国道1号信号機までが354歩、国道を渡り南櫓までが |
400歩、南櫓の下に通る旧街道をまた国道に出た所まで475歩あった。計算上は1歩72cmだとすると |
ここまで342mとなる。 |
先ほどの誤差というものはあろうが342mはおよそ3.1町にあたり、渡辺勘兵衛の目測した三ノ丸木戸 |
まで3町はこのあたりに相当するのだろうか。周辺を見回すと20m手前に三ノ丸堀に向かいL字形に |
残った土塁跡がある。またこの北側にある宗閑寺裏の墓地には櫓跡のような小高い盛土がある。しかし、 |
三ノ丸一帯は17世紀に整備された東海道の山中部落から現代まで住宅地となっており、史料に基づく |
「しほり戸」「二階門」の痕跡はない。 |
公民館の脇から箱井戸に下っていく。三ノ丸から二ノ丸までの距離を測るためだ。宗閑寺墓地の下、 |
箱井戸と田尻ノ池の間を二ノ丸門下の突き出た部分まで歩測すると26歩あった。およそ20mくらいか、 |
欄干橋があったとされる10間にほぼ相当する。 |
田尻ノ池から三ノ丸堀に向かう。池から下っていく左側、三ノ丸側が三ノ丸新堀で中央の通路になって |
いる中央畝を境に西側が三ノ丸旧堀である。ここは二ノ丸東下の谷を箱井戸、田尻ノ池から南方向に |
堀切を作り、堀底道が本城郭と岱崎出丸との間を浅間平まで続いていたのではないかと思われる。 |
現在の遺構の状態は池の南側で堀留となり、その西上に厩の曲輪、堀の南は国道で遮られている。 |
やや広くなった堀留の上に厩があるが畑地となっているため、立ち入りは遠慮しなければならずその |
全体を見ることはできなかった。 |
14:10中央畝を通り厩の南下国道を西に向かって降りていくと、本城郭の西からの入口があり、ここを |
登って行くと西木戸に続いている。登り始めの所は「小浅間平」その上が「エビノ木」と古絵図にあった |
のを思い出す。「エビノ木」の先にNTTドコモの無線中継の鉄塔があり、西櫓の外側帯曲輪の南端部に |
接続する。 |
「浅間平」から緩斜面を登ってきて「小浅間平」から西木戸まで攻め上がってくると西櫓とその外帯曲輪 |
から銃撃を受けることになる。おそらくこのあたりで一柳直末は銃弾に当たったのではなかろうか。 |
西木戸口から西櫓に回る。北条流縄張りの特徴の1つである角馬出しとなっていた西櫓の南に架かる |
土橋を渡ると虎口部分があり、曲輪面は方形をしていてその四周には1.8m程の土塁が廻らされてい |
る。公園化されている現在では土塁上にツツジの木が植えられているが、その間隔は1間ずつ見事に等 |
間隔であり塀の柱穴の位置に他ならない。 |
今回、渡辺勘兵衛覚書に記載される距離を確認すべく歩測を中心に計測した結果と比較しながら踏査を |
してみた。15:05駐車場着。尚、帰途に自動車のメーターで周辺の距離を測ってみる。「韮山辻」から |
「浅間平」とした創価大学セミナーハウスまで100m、「富士見平」まで500m、富士見平下の丘状 |
平坦地まで900m、笹原新田まで2.3kmであった。 |
行動時間 約5時間 |
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