山 中 城



● 踏査記録から(考察)


第4回行動記録 


日時         2005年4月23日 
コース        富士市(自宅) 7:15 → R1 → 沼津 → 三島 → 山中城址 8:20 
参考地図      1/25000地形図(三島)      現地住宅地図(ゼンリン)       
踏査地点      三ノ丸木戸跡  宗閑寺(三ノ丸二階門跡)  箱井戸(欄干橋の位置) 
            二ノ丸物見台(本丸までの距離)  本丸(天守櫓の広さ) 
            元西櫓  西ノ丸(二ノ丸物見台からの距離)  西ノ丸物見台(広さ)  帯曲輪(西ノ丸からの距離)  
            岱崎出丸  すり鉢曲輪(三ノ丸からの距離)  御馬場曲輪・すり鉢曲輪(土塁の長さ) 
            国道1号  富士見平周辺(出丸先端からの距離) 


行動記録      ウォーキング・メージャーを購入したので、これを使って実測することにした。発掘調査の測量までの正確さ      
            はないが、それでも近似値はとれると思われる。  
           「渡辺勘兵衛覚書」の勘兵衛の目測と比較して検証するためである。第1回・第2回目の踏査では勘兵衛同
           様に 目測で距離の見当をつけた。第3回目の踏査では5mのメージャーと歩測をもって距離見当をつけ 
           た。今回は人によっては誤差は生じるものの人間の目測と実測との距離差はどのくらいあるのか、はたし
            勘兵衛が実戦の中でどのくらい正確な距離を把握し、そして記憶していたかを検証してみたい。 
           寛永16年に書かれた「覚書」の内、山中城攻撃が始まる出丸への取付きから詳細に記載された中で、 
           勘兵衛が所々で目測距離を示した数字を追ってみる。 


「改定  史籍集覧」 渡邊勘兵衛武功覺書より 


@ 太閤様中納言様御陣の先山中の出丸へ「八町」計可有之候所迄上らせられ 
A 向土居の幅わづかに「三十間」ならては 
B 三ツ目の高きつくへ乗上け見申候得者城へは「一町」餘も可有之候 
C 三丸「三町」計も可有之候 
D 三丸門かくしにあけ志ほり有・・・此「五間三間」の内にて 
E 勘兵衛起立志ほりを乗越「二十間」計参候得者三の丸の二階門を 
F 三丸と二の丸との間にのほり相見へ堀の上に「十間」計のらんかん橋有 
G 廣間に・・・戌亥の角に有之「五六間」四方に高さ「二間」あまり 
H 塀から廣間まで「十間」計も可有御座候 
I 此本丸の「二町」脇西に「一町」に「三町」程の芝原有 


「續  群書類従」 渡邊水庵覺書より


@ 同廿九日。晝過に太閤様。中納言殿御備の先。山中の出丸へ。「八町」計も可有之所迄。あからせられ。 
A 向どゐのはゞ。わづか「十間」計ならては。有之間敷候。 
B 其三ツ目の高きづくへ乗上ヶ見申候。城へは「一町」はかりも可有之候。 
C 三の丸まて「三町」計も可有之候。 
D 三の丸門がくしにあけしほり在之候。・・・此四人は。爰にて鐡砲にあたり。當座に果候。此「五間三間」の内にて 
E 見合にて勘兵衛おきたちしほりをのりこえ。「廿間」計參候へは。三の丸之二階門下を。丈夫に抱候へ共。とびらわきを 
   押しやふり。三の丸へ押こみ候へは。 
F 三の丸と二之丸の間に。水堀相見へ。堀の上に「十間」餘りの欄干橋有之候。それを渡候時は。  
G 廣間になみ居る二百計之者。どっと一度に。又戌亥の角に有之「五六間」四方に。高き「貮間」餘り。 
H 本丸にてわきへも見へ申由に候。塀から廣間まで。「十間」計も可有之候哉。 
I 此本丸の「貮町」計西に。「一町」に「三町」程の柴原有之候と。


検証 


収録された史料により渡邊勘兵衛覚書も若干の違いが見受けられる。表現の違いはあれ数字的にはほとんど相違はないの 
であるが、1ヶ所だけ突入時の状況で「向どゐの幅」つまり土塁の幅が「三十間」と「十間」と30数メートルも違っている。とに 
かく列挙した10ヶ所の目測された数字がどこにあたるのか計測を始める。 
駐車場に車を置き三ノ丸に入る旧街道を南櫓の脇を通ると、民家の間に土塁跡と思われる台形状の盛土を切ったようなもの 
が見える。国道1号本城郭入口から計測して76mの地点だ。この土塁跡はここ大手口から三ノ丸堀に向かい、三ノ丸新堀 
に沿って宗閑寺裏の墓地に伸びている。旧街道の東側は民家が建ち並び、国道1号の貫通によって遺構の面影は全く見ら
れない。 しかし覚書に記された「あけしほり」つまりしほり戸のあった位置はおそらくこのあたりであったに違いない。Dの「五 
間三間」はどこを指すのかわからないが、東西は不明だが南北の土塁の厚さは3.5mあった。 
次にしほり戸を乗り越えた勘兵衛たちが三ノ丸二階門まで進む。土塁跡の北側は一段高く宗閑寺の境内と墓地になってい 
る。本堂の南側には間宮と一柳の墓石があり、西側に一般の墓地が広がっている。本堂西側の中央部には小高くなった丘 
状部分があって何やら櫓跡を思わせる。丘状部分から南側の間宮の墓石まで直線距離で36m、そこから低くなって民家 
の向こうに土塁跡が見え、およそ倍くらいの距離である。Eのしほりから「廿間」約36m地点は民家から一段高くなったこの 
墓地の南端にある間宮、一柳の墓石が建つこのあたりであろう。 
宗閑寺の隣にある山中公民館横を下に降り、箱井戸と田尻ノ池の間で宗閑寺墓地の西下から二ノ丸門下の平坦地までの 
距離を測ってみる。覚書の堀の上で「十間」ばかりの欄干橋の長さはどうだろう。墓地の傾斜と二ノ丸門下までの傾斜であ 
まり正確ではないが24mであった。Fの欄干橋は「十間」約18mであることからほぼそれに近い距離である。 
二ノ丸門をくぐり二ノ丸物見台に上ってみる。たぶん大杉があったのはこのあたりであろうかと思われるので、土塁西端にあ
 この物見台からの展望を確かめてみると、二ノ丸北東方向に本丸方向は見えるが西の方向は現在元西櫓の向こうに
西ノ丸の 曲輪面は見えない。 
勘兵衛は大杉から西を見て城内に東向きの広間があると言っていることから、北東側の本丸上段及び中段ではなく西ノ丸 
を指していることは疑いもないであろう。因みに物見台の下の虎口から本丸西堀までは80mあり、物見台から曲輪面は見 
えない。その上、「五六間」四方の広間は東向きであり、広間を天守台と仮定しても広さは11m×11mの天守台とほぼ同 
程度だが、位置は戌亥の角ではなく本丸曲輪の丑寅の位置である。 
そこで二ノ丸虎口から架橋を渡り元西櫓へ。この西端までの距離が47m。西ノ丸搦手門までが22m、搦手門から広間で 
あろう西ノ丸物見台まで35mある。Hの塀から広間まで「十間」というのはどこの塀を言っているのであろうか。西ノ丸物見台 
は長方形というか楕円に近い曲輪の西端、西櫓を見下ろす位置に土塁の高さまで盛ってある。物見台上の長さは東西11m 
×南北7m高さ2m程度であるが、覚書のGは戌亥の角に五六間四方つまり約10m四方ということでほぼ一致する。 
さて、本丸の「貮町」ばかり西に「一町」に「三町」程の柴原があるという所へ行ってみることにする。本丸は西ノ丸で進めてい 
るから、西ノ丸から西櫓、帯曲輪、西木戸口へと向かう。西ノ丸西端から西櫓まで20m、西櫓から帯曲輪まで40mでその 
下は急斜面の草付である。「貮町」では近すぎるので小浅間平の方だろうか。帯曲輪の南西端からエビノ木と思われる小浅 
間平の上まで測ってみると86mあって、これでほぼ勘兵衛の言う「貮町」に近づく。小浅間平から国道1号に降り三ノ丸から
出丸に 向かう。勘兵衛が最初に取り付いた地点を確認するためである。 
Cの三ノ丸までが「三町」はどこなのか。先にしほり戸があったと推定した地点から逆に岱崎出丸の曲輪上を計測していく。 
まず三ノ丸しほり戸地点から国道1号信号機までが76m、国道を渡って出丸東端までが56mで計132m、御馬場曲輪まで 
が135mで計267m、御馬場北堀までが46mで計313m、一の堀東端までが30mで計343m、すり鉢曲輪見張台までが 
98mで計441m、すり鉢曲輪西端までが46mで合計487mであった。以上、突入できそうな所までの三ノ丸からの距離で 
ある。これから推察するに勘兵衛の目測見当ではあるが「三町」の地点は一の堀東端になるが、誤差を考慮するとすり鉢 
曲輪見張台までの間であろうか。発掘調査団の齋藤宏氏は1994年版の報告書の中で、やはり突入口を国道1号と旧街道 
の合流点から「四季遊山」の私有地を通り、すり鉢曲輪見張台の東側と推定している。 
覚書の中で勘兵衛の突入口を確定させる手がかりとなる部分は、Cの三ノ丸まで「三町」とBの三つ目の高きづくから城まで 
「一町」であるが、この高きづくが現在では全くわからない。そこでAの部分から向どゐのはゞ「十間」を捜すことにする。但し 
先述したとおり史料によって数字の違いが認められたため、ここからも確定できずやはり推定の域を脱することはできない 
のであろうか。 
復元された現在の遺構と当時の堀、土塁とは多少規模的に違いはあるであろうが、実際に突入するとしたらどの地点から 
入るのが入りやすいか現場から判断して自説としたい。 
「つふら」も「高きづく」も現在では確定はできないが、ただ現場の状況から国道1号と旧街道の合流点の上で、すり鉢曲輪 
の北西端に堀留なのか雑木に覆われたこんもりした所がある。おそらくこんな感じの小さなコブ状のものであろう。もし、この 
地点だとすればすり鉢曲輪見張台から西端までの長さは46mであるから約25間で史籍集覧上の「向土居の幅わづかに 
三十間」に近い。 
ただ三ノ丸までの距離から考えると「三町」では遠すぎ、計測距離からでも487mで約4町以上もあることから、いくら目測 
とはいっても1町以上も誤差がでるとは考えにくいであろう。 
また勘兵衛が堀を越え塀に乗り上がった時、後続の4人と西の口より2人加わったとあることからも、自分の西側からも 
上がってきたわけでやはり先端より物見台寄りと言わねばなるまい。それに「横懸之足場在之所」といえば一の堀北側で 
帯曲輪の現在「四季遊山」の建物があるあたりではないだろうか。 
このように見てくると齋藤宏氏の推定地点に近くなってくるわけだが、それほど地形的に東寄りには思えない。では先程の 
46mはすり鉢曲輪の内部での西端までの距離であり、勘兵衛の見た「向土居の幅」ではおそらくないであろうから北土塁 
そのものの長さはどうだろうか。この円形の曲輪で土塁の起点をどこにもっていくか難しいところではあるが、北西端にある 
コブ状部分の上に定めることにした。そして物見台までの土塁上の距離を測定すると28mある。つまり約15間ということ 
になり勘兵衛は物見台の下あたりからそそり立つ土塁を見上げて「向土居の幅」を言ったのではなかろうか。 
最後に@の本陣の場所か、太閤秀吉の立つ位置は出丸まで「八町」とあるがどのあたりであろうか。距離があるためやや 
誤差はあるが車のメーターで測る。起点を出丸の先端であり旧街道と国道1号合流点にとり、1号線を下って行くと富士見平 
の下に平坦地があって、そこまでの数字が800〜900mを示していた。しかし、現場の状況からはとても陣場にした位置 
とは思えないような場所である。当時と景観が若干違ってはいようが、この平坦地のすぐ前に富士見平の丘陵部があり 
前方は全く見えない。車を止め周囲を歩き回ってみたが地形的に距離は「八町」よりも短いもののやはり富士見平上に陣場 
を決めた方が良さそうに思われる。                                     行動時間   約3時間 
                                                                   2005年  記 


【参考文献】 
     ・ 「改定 史籍集覧ー渡邊勘兵衛武功覺書 寛永十六年」
                   近藤瓶城     明治35年7月
 
     ・ 「續 群書類従 合戦部25−渡邊水庵覺書」
                   塙保己一・続群書類従完成会     昭和54年     
 
     ・ 「三島市誌 中巻」
                   三島市誌編纂委員会     昭和34年5月
 
     ・ 「南足柄市史 別冊Tー松田氏関係文書集」
                   南足柄市史編纂委員会     平成3年3月
 
     ・ 「小田原編年録」
                   間宮士信     昭和50年2月
 
     ・ 「小田原北条記」
                   岸正尚     昭和55年11月
 
     ・ 「関八州古戦録」
                   八谷政行     昭和42年11月
 
     ・ 「北条史料集ー北条記」
                   八谷政行     昭和41年3月
 
     ・ 「史跡 山中城跡V」
                   三島市教育委員会     昭和51年3月
 
     ・ 「史跡 山中城跡」
                   三島市教育委員会     昭和60年12月
 
     ・ 「史跡 山中城跡X」
                   三島市教育委員会     昭和63年3月
  
     ・ 「史跡 山中城跡[」
                   三島市教育委員会     平成4年3月
 
     ・ 「史跡 山中城跡\」
                   三島市教育委員会     平成5年3月
 
     ・ 「史跡 山中城跡U」
                   三島市教育委員会     平成6年3月
 
     ・ 「史跡 山中城跡2001」
                   三島市教育委員会     平成13年3月
 
     ・ 「史跡 山中城跡2002」
                   三島市教育委員会     平成14年3月
 
     ・ 「山中城攻防戦闘要図」
                   中村徳五郎・三島市誌     明治30年
 
     ・ 「山中城址之図」
                   市川近太郎     大正元年
 
     ・ 「山中城図」
                   小田原編年録                    
 


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