深 沢 城
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第1回 現地踏査記録 |
日時 2003年3月16日 |
コース 富士市(自宅)8:30 → R1 → 沼津 → R246 → 御殿場(萩原北) → R138 → |
御殿場(市役所北) → 足柄街道 → 城入口 → 深沢城址10:00 |
参考地図 1/25000地形図(御殿場) 現地住宅地図(ゼンリン) |
踏査地点 第Ⅰ郭 第Ⅱ郭 第Ⅲ郭 |
1号堀 2号堀 3号堀 4号堀 5号堀 6号堀 8号堀 9号堀 10号堀 |
1号土塁 2号土塁 |
土橋 馬出し 食料庫跡 大手口 |
抜川(旧 馬伏川) 宮沢川(旧 抜川) |
行動記録 富士市より車で約1時間30分で深沢城址に到着。足柄街道の城入口バス停から左に入ってすぐ城址の |
石碑がある。特に駐車場はない。石碑横のわずかなスペースに路上駐車をした。(富士~深沢城址 |
約45km) 10:00 石碑横の説明板を一通り読んだ後、先ず三日月堀の遺構を見る。大手口の8号堀は |
その西側の一部が道路に分断されているが、道路の西側の9号堀は当時より浅くなっていると思われる |
(目測で2~3m位)がはっきりとその原形をとどめ感激する。 |
第Ⅲ郭を囲うもう1つの10号堀は中央部を道路に切られあまりはっきりとはしない。8号南側と10号はか |
なり埋って半藪状態であった。 |
大手口(遺構の南側)より第Ⅲ郭に入る。入口右手は田代宅、左手は鈴木宅と現在民家が建っている。 |
田代宅の北側、丸馬出しから第Ⅲ郭に入るところ、左に8号、右に6号堀の土橋状の個所がある。第Ⅲ郭 |
の南側をしっかり防御している8号堀も西側は道路で、東側(大手口)は鈴木宅に入る小道で分断されて |
いる。田代宅北側の丸馬出しを囲う7号堀、6号堀、第Ⅱ郭に入る馬出し部の5号堀とこの二重の構えは |
まさに 武田氏の手を入れた遺構であろう。 |
第Ⅲ郭と第Ⅱ郭を分ける4号堀はかなり深いが今は雑木林となっており、その土を盛り上げたであろうか |
1号土塁も結構高いが雑木化している。ここに二鶴様式の標識があるが実際ははっきりと見てとれない。 |
第Ⅱ郭に入る馬出しは現在畑になっているがここははっきりと武田氏の特徴が出ていて思わず唸って |
しまう所ではなかろうか。 |
第Ⅱ郭に入る。西南部に食料庫の跡があり、焼米が出てきたようであるが現在はササ藪状態である。南側 |
虎口状の所から第Ⅰ郭への土橋まで道になっており、左右に大きく3区画の水田に利用されている。調査 |
書によると縦約99.5m、横約68mとなっているが、個人では計測ができないため目検討で概算そんな |
広さであろうか。南北の両郭で守られた一段高いこの平場がやはり主郭ではないかと改めて思われる。 |
第Ⅱ郭の北側、2号堀と3号堀に挟まれた土橋を渡り馬出しから第Ⅰ郭の虎口に入る。南の第Ⅲ郭は |
見た目で正方形に近く、主郭と思われる第Ⅱ郭は南北に長い長方形だが、この第Ⅰ郭は東西に長い長方 |
形である。ここの馬出しを囲む3号、1号堀から宮沢川(旧 抜川)の水面まではかなり高さがあるが、 |
当時の自然な状態ではもっと水面は上であったろう。 |
この1号堀の北側より小高く盛り上がった個所がありその先端部から(以前松の木があったらしい)鶴と |
亀の置物が出土したようだ。中央部を南北に農道?を通し、東西は8~9区画の水田に利用されている。 |
第Ⅰ郭の北端から雑木林越しに川の対岸を見るとどうも向こう側の方が高いようだ。雑木の間に下りる |
道がついており、対岸に渡る橋がかかっている。ここから約50m位であろうか、東の方に行くと川の合流 |
点になっている。水面からの高さは東(宮沢川)の方が高く、西(抜川)の方がやや低いため対岸から見る |
と武田 氏はこの抜川から攻めたのではないだろうか。 |
両川の護岸工事がしっかりとしているため、一段高くなった川岸は大変歩きやすくなっているが、北東側 |
の合流点から対岸には渡れずかなり迂回しなければならない。今回は宮沢川左岸からの展望は見送る |
ことにした。 |
行動時間 約2時間 |
第2回 現地踏査記録 |
日時 2003年4月27日 |
コース 富士市(自宅)8:20 → R1 → 沼津 → R246 → 御殿場(萩原北) → R138 → |
御殿場(市役所北) → 足柄街道 → 深沢城址10:00 |
参考地図 1/25000地形図(御殿場) 現地住宅地図(ゼンリン) |
踏査地点 抜川(旧 馬伏川) 宮沢川(旧 抜川) 抜川曲渕 合流点 |
第Ⅰ郭 櫓跡 遺物出土場所 第Ⅱ郭 井戸跡 第Ⅲ郭 礎石 第Ⅳ郭 袖郭 |
台山構え 東構え 八幡祠址 旧根小屋(根古屋) |
行動記録 今回も沼津経由で御殿場まで行ったが十里木街道経由で裾野からR246に出たほうが近いことがわかった |
ため、次回からそのコースをとることにする。 |
前回と同様に説明板前のスペースに車を置いて見残したところを撮影した。第1回目の踏査で文献を参照 |
してテーマを決める。武田氏が籠城する北条側を攻めるのにどの地点に主力を配置したのか。金山衆 |
(金掘り衆・ 金のみ)はこの各郭のどこを掘り崩したのか。「深沢矢文」はどこから放ったのか。等々遺構を |
見ながら当時の 想像を膨らませることに大変な喜びを感じる。 |
まず抜川(旧 馬伏川)の曲渕部分の川原に下りてみる。遺構西側の道路、10号堀の北にかかっている |
抜川橋の南から下りていく道があり第Ⅱ郭の北西部、川が大きく内側に屈曲する部分に立つ。現在河川 |
改修がしっかりとされているため川面からは護岸が高くなっているが、ここからさらに第Ⅱ郭まで6~7m位 |
あろうか。川幅は浅い所で3~4m、当時でも10mはないのではないだろうか。 |
抜川橋まで戻り橋の対岸を少し行った湯山宅の所から川原に下りていく。ここからは川面まで下りられ、 |
2号堀と第Ⅰ郭南西部の屈曲部の対岸(土壁状)がよく見える。壁は赤土のようだ。おそらく火山灰・火山 |
噴出物と河川からの扇状地堆積物であろうが層になっている個所も一部見受けられる。川幅は狭く水量が |
なければ渡渉可能と思われる。 |
この屈曲部から左岸を第Ⅰ郭の北側に回りこむ。北西部のやや小高くなった所が櫓跡であろう。 |
橋の所から北に登る道がありその上に台山構えがある。台山の西側の大堰地区からはちょうど東の方に |
足柄峠(足柄城)から金時山がよく見える。大堰地区は川よりやや高くなっていてこの抜川越しに第Ⅰ郭を |
見下ろす感じになるが、確かに文献どおりこれでは第Ⅰ郭は包囲した敵から丸見えになってしまうだろう。 |
台山からまた川に下り橋から郭の下、川岸を両川の合流点に行く。ここの斜面は層がむき出しになっており |
河川からの堆積物(黒土・礫・所々に両手で抱えるくらいの岩石)でできている。本来、両川がぶつかりあって |
この小高くなった郭を侵食していったであろうからもう少し広かったのではないだろうか。土壌はゆるく崩れ |
やすく傾斜がきついので滑りやすい。 |
第Ⅰ郭に入り西側に行こうとしたが、この一面水田に水をはっており田植えの準備をしていたため櫓跡、 |
袖郭の所までは行けなかった。時期的には農閑期(冬場)に訪れるべきであろう。同様に第Ⅱ郭も中央部の |
井戸跡はわからず第Ⅲ郭に移る。 |
西側の道沿いの部分にある八幡祠址と礎石を見ることにする。小祠は郭の西のはずれに祀られてあって |
当時この郭から戦勝を祈願して出て行ったのであろう。その近く建物の礎石が発見されたらしいが、どうし |
てもこれはわからなかった。 |
ここから西の道に下りると抜川橋である。橋の西側一帯が元の根小屋であったというが、10号堀の土塁と |
川に挟まれた楕円状のあまり広くはない所である。 |
大手口から田代宅前を通り宮沢橋に出る。ここが3号土塁となっているが実際はその上に水田があるので |
土塁跡なのか田の畔なのかよくわからない。ここの水田部分を第Ⅳ郭と呼んでいるようだがどうであろうか、 |
それらしいようには思えなかった。 |
宮沢橋を渡り足柄街道の交差点から北へ宮沢川を回りこむように辿っていく。第Ⅳ郭を囲む川の流れは |
旧来さらに東の方に蛇行していた。現在の流れとこの蓮花寺地区を通る道までの間、東構えと呼ばれている |
所に降り立つ。道路より一段低くやや半円状の場所は、なるほどここを川が流れていたのかとも思える。この |
雑木林の東構えの北側から宮沢川越しに第Ⅱ郭を眺めてみる。この地点からは川の両岸とも傾斜はきつく |
高さも距離もある。この奥にある小宮山宅まで小道が入っているが、川岸まで下りていくことは困難なようで |
ここから合流点まで残念ながら辿ることを断念する。 |
行動時間 約2時間 |
第3回 現地踏査記録 |
日時 2003年6月22日 |
コース 富士市(自宅)8:00 → 十里木街道(R469) → 御殿場・川島田(R246) → 萩原北(R138) → |
市役所北 → 足柄街道 → 深沢城・七社神社9:00 → 竹之下 → 十輪寺10:35 → 県道394 |
→ 藤曲(県道147) → 中日向・明神峠入口11:05 → 山中湖・平野方面 → 明神峠11:40 → |
中日向 11:55 |
参考地図 1/25000地形図(御殿場) 現地住宅地図(ゼンリン) |
踏査地点 七社神社(深沢城大手口までの距離) |
武田本陣地点(深沢城から7~8町行った所) 竹之下 |
十輪寺(山門) |
山中湖(平野地区) 明神峠 中日向地区 |
行動記録 今回の目的は元亀元年(1570)武田氏が駿河侵入、深沢城攻めのルートを辿ってみることにした。甲斐 |
(山梨県)側から入ればよかったのであるが、実際は現地(深沢城)から辿ってしまったので把握しにくく |
失敗かもしれない。 |
9:00七社神社は大雲院のすぐ北側にある。七社神社は当時の神明社・深沢神社・浅間神社等七社を |
明治44年に合祀したものでこの時社号を七社神社と呼ぶようになったといわれている。この地は深沢城 |
大手口の約700m南にあり、信玄に命じられた駒井右京之進が陣を張った所である。ここから300m |
北に宮沢川を渡り足柄街道が横切る。現在、城入口バス停からさらに300m北へ入ると深沢城大手口に |
着く。前回の踏査時に見た抜川方向に「矢場」の地名が残っていることから、七社神社に陣を構え大手口 |
(第Ⅲ郭)を攻め、城域より高くなった抜川方向から「深沢矢文」の鏑矢を富士颪の風に乗せて放ったの |
では ないだろうか。 |
次に資料による武田本陣の位置を推測する。信玄本隊は中日向より南下して「深沢城より6~7町へだてた |
竹之下の浅間平」なる所に布陣した。大手口から足柄街道に出た宮沢橋から6~7町すなわち7~800m |
竹之下方面に行くと現在の地番では御殿場市深沢で倉賀野との境あたりである。街道はやや登っており、 |
その上に平坦地があってここらあたりを「浅間平」と言ったのであろうか。実際、竹之下(屋敷跡の交差点) |
まではさらに7~800m行かねばならないし深沢城からは13町くらいもある。 |
中日向に向かうのに途中で十輪寺に立ち寄る。曹洞宗向嶽山十輪寺の山門は深沢城の搦手門を移築した |
ものといわれる。所々補修され新しい個所もあるが、柱そのものは当時の名残を感じられるものであった。 |
十輪寺の門前の県道394号を藤曲方面に向かい、野沢川沿いに147号を入る。およそ15分程で中日向 |
に着く。ここからT字路を右に折れ、明神峠に登っていく。11:15明神峠着。 |
明神峠から山中湖方面に下って行き、5分程走った所で山中湖と甲斐の山々が見渡せる場所に出た。 |
湖面をはさみ南に富士山が聳え立っているようだが今日は裾野しか見えない。ここから下は緩やかな傾斜 |
で 平野地区まで下っている道が見下ろせる。当時の武田騎馬軍団もこの雄大な景色を眺めつつ逆に緩や |
かな傾斜を平野から登ってきたのであろう。 |
今回はこの地点で休憩、昼食をとり折り返すことにした。明神峠まで戻る。山梨県から一度神奈川県に入 |
り、明神峠は現在神奈川県と静岡県の県境になる。ここに建つ道標から西にズナ峠まで2.1kmを経由 |
して 三国山へ、東に湯船山・世附峠へのコースがあることがわかる。峠から南側を覗くと真下に中日向 |
から深沢方面と遠くに足柄、金時山、箱根連山までよく見渡せる。 |
今まで来た道を下っていくわけだが当時の騎馬軍団では結構ここの下りはきつかったのではないだろうか。 |
車で走るとほんの5分程で中日向まで下りてしまう。距離にして約5km程度である。 |
中日向地区からR246に出て帰途についたわけだが、ここから武田軍団は深沢まで行き信玄は「浅間平」 |
なる所にあえて足柄、小田原を背にして陣を張った。 |
行動時間 約3時間 |
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