深 沢 城
● 踏査記録から(考察) |
はじめに |
御厨(みくりや)地方の代表的な遺構である「深沢城」には、16世紀群雄割拠の時代においてその重要性に誠に顕著なもの |
があると思われる。定かな資料がないにしろ今川氏親がこの地に目をつけ、当時では珍しかったであろう丘陵地や舌状台地 |
に堀割といったなわばりではなく、旧名馬伏川と抜川の合流地点に城を構えたのであった。 |
この深沢の地は南へ長久保・三島方面と十里木街道を南下し大宮(富士宮)・駿府へと続く道、富士山を回り込むように西へ |
籠坂峠を越えた甲州街道、東に竹之下から足柄峠を越えて小田原へと続く足柄街道との物資・交通・軍事の大変重要な |
交差点であった。 |
御厨地方を前世紀支配していた「大森氏」も北条早雲(伊勢新九郎)により滅ぼされ大森一族も離散し、その流れである |
「葛山氏」を除いてこの地は北条氏の勢力下にあったと思われるが、再三再四「武田氏」がある時は大宮から、またある時は |
御厨から駿河に侵入してきたのであった。 |
そこで「深沢城」をめぐる激烈な攻防戦が繰りひろげられていくわけであるが、やはり16世紀後半ここ駿河においては永禄 |
3年(1560)の桶狭間以降の駿・甲・相3国がそれぞれ最重要地点と見ていたこの地の攻防戦にスポットを当てるべきだと |
思う。駿東地方における資料の数々を広げ、衰退していく「今川氏」の領国を攻める「武田氏」と守る「北条氏」との思惑を考え |
ながら 実際にそれぞれの進攻コースを踏査してみた。 |
武田氏の侵入ルートについて |
桶狭間以降機会を窺っていた「武田信玄」は一方的に三国同盟を破り、ある時は大宮からまたある時はこの御厨から駿河に |
攻め込んできた。おそらく義元亡き後の信長の存在が気になってきたのではないだろうか。永禄11年(1568)から何度と |
なく駿河に侵入してくるのである。蒲原・駿府と陥れ西進するも、東駿河は今川勢力の衰えとともに北条氏の支配下となって |
いたことから、背後の備えとして是が非でもここの御厨地域は握っていなければならなかったであろう。 |
元亀元年(1570)再び深沢の地を目指して武田軍団が侵入してくる。籠坂峠越えのルートよりも平野からズナ峠越えして |
中日向より南下した方がおよそ半分くらい時間が短縮できることから、傾斜はきついがこちらのコースを選択したものと思わ |
れる。旗印にあるように「疾きこと風のごとく」駿河をいち早く抑え西に向かいたい。しかし、思いがけず北条方の城将北条 |
綱成らの防御にかなりの時間を費やす。この年の暮武田方の主将駒井右京之進が深沢城を取り囲んでから翌年正月 |
半ばに綱成が開城するまで1ヶ月もかかってしまった。 |
ここで、この事象について武田方の目で甲・駿国境からこの深沢まで実際に辿ってみたくなり車ではあるが走行してみた。 |
本来なら甲斐平野地区を出発点にズナ峠から明神峠、中日向を通り深沢の地へと歩行すべきであろうが、とりあえず地理的 |
な感覚をつかもうと県道147号を藤曲より山中湖方面に入ってみる。 |
標高約900mの明神峠は北側が神奈川県、南側は静岡県の県境をなす尾根上の位置であり、ここから尾根道を西に |
ズナ峠を経由して山梨県平野地区へと旧道は下りているが、現在立派な舗装道路が尾根の北側をまいて山中湖の東畔平野 |
地区に続いている。ズナ峠越えの道は甲斐側からは緩やかだが、尾根上の峠を越えて駿河に下るのは距離は短いが傾斜 |
はかなりきつい。当時の鎧具足を身にまとい騎馬武者軍団が通っていく姿を想像しつつ、今では車でわずか5分で中日向に |
着い てしまった。 |
籠坂峠越えの甲州街道とズナ峠越えのこの道とあったわけだが、無論籠坂コースの方が通りやすく一般的であったと思わ |
れる が、なにしろこの地域は「富士火山」というものがあって、過去何万年も前から地形そのものが自然によって大きく変え |
られて きた所である。この16世紀頃は富士山の活動は比較的おとなしく静穏期であったようだが、記録として残っている |
ものに天応元年(781)から始まり延暦19年(800)・貞観6年(864)と大噴火をおこしている。その後は有名な宝永4年 |
までは大規模なものはなかったが、小噴火や地震は記録されていることからその噴出物・堆積物によって交通のルートは |
その時々変えられて いったのは否めないであろう。 |
それよりこの時の「武田氏」は時間に追われてズナ峠越えを選んだのであろうが、急坂を中日向へと一気に駆け下り深沢の |
地に布陣した。駒井右京之進が陣を構えた「七社神社」は深沢城大手口からわずか700mの所であり、再三ここから攻撃を |
しかけたようである。 |
「深沢矢文」の検証 |
ここで大きく3つに分かれた曲輪の遺構を踏査してみる。短時間でこの城砦を落とすにはどこからどうして攻めたらよいのか。 |
430年以上も経った今では多少の変化はあるにせよ、かなり当時の曲輪のままであろう遺構を丹念に見て回り、地形的に |
深沢城の長所・短所をそれぞれ考えてみる。 |
まず3つの曲輪を挟むように流れる2つの川である。この2つの川は第T郭の北東、両川の合流点から対岸の「台山構え」の |
下を通り北の方に流れ下っているわけだが、合流点の両側を堰き止めれば3つの曲輪は巨大な水堀に囲まれた堅固な要塞 |
になることは容易に想像できる。前節で述べたように深沢をはじめ、御厨地方は富士山・箱根連山からの水系であるため |
火山噴出物が泥流となり堆積した層をなしている。実際に合流地点の傾斜に触れ登ってみても非常にもろく崩れやすい。 |
曲輪の東側には行けなかったが、北側は所々両手で抱えるくらいの岩石を含む礫と黒土の層、西側の第T郭及び第U郭の |
川岸にみられるものは赤土の締まった層になっていた。深さや川幅については、現在は崩落を防ぐため平成7年の護岸工事 |
によって流路が確保されているので当時の状況を推測するだけだが、春先水量が多いと思われるこの時期でも、第U郭の |
屈曲部では川岸に下りるとその深さや幅から見て十分渡渉可能のようであった。しかし当時は今よりもっと広く深かったで |
あろう。 |
次に堀と土塁である。遺構では3つの曲輪を囲む堀と土塁については平成11年の御殿場市教育委員会からの報告書に |
基づいて、それぞれの名称・符号を使用することにする。おそらく15世紀の今川氏親の時代にはほとんど自然に近い状態で |
あったと思われるが、北条氏の支配での堀の掘削に5号から10号まで見られるような武田氏による特徴的な堀が重ねて |
作られている。主郭をなす第U郭の南側虎口部にある1号土塁は、4号堀の土を積み上げたのであろうが、小高い丘状を |
なし第V郭と完全に分断されて南側からの侵入が第V郭が落ちてもここで食い止めることができると思われた。ここに深沢 |
城が二鶴 様式といわれる標柱があり、勝間田二郎氏の書かれた鶴の絵を想像していたのだが、地上から見た限りでは全く |
その 形がわからない。また、はっきりと武田氏が修築した遺構に目を見張るものは9号堀と2号土塁である。第V郭南西側 |
をしっかりと防御するこの三日月堀と盛られた土塁は何か当時そのままの姿ではないのかとさえ思われる。 |
このようにこの城郭の北側、第T郭から第U郭までは2つの川に挟まれた天然の要塞であり、その第U郭から第V郭までは |
人工的な防御施設をもたなければならなかった。北条氏が開城した後、武田氏による大幅な改修がなされたのはほとんど |
第V郭の周りではなかっただろうか。元亀元年の深沢城攻めの時点ではそれほど厚い施設はなかったのであろうこの第V |
郭は落ち、先の1号土塁部分の固い防御で北条方は死守していたのであろう。 |
武田氏がこの第V郭周辺の防御を厚くした理由として、地形的な弱点があったのではないだろうか。第T郭は堰き止めら |
れた川と断崖により、確かに対岸の大堰地区の方が高く曲輪の内部が丸見えの状態かもしれないが、攻めにくかったように |
思う。開城後の武田氏はやはり北条氏の攻撃に備え第T・U郭の南東側虎口より馬出し(丸馬出し)を二重にして作り、南側 |
大手口付近はやはり二重に三日月堀を掘っている。 |
このように見てくると武田氏の攻撃地点がわかってくるのではないだろうか。武田信玄の本陣が竹之下、深沢城より7〜8町 |
の所に足柄・小田原を背に陣を張ったとあることから足柄街道の竹之下方面に7〜800m程行った所を推定してみたが、 |
七社神社の位置がやはり深沢城より南に7〜8町であることからここが本陣という説も成り立ってくる。 |
しかし、私見として東7〜8町の所に本陣があって先陣の駒井はここから指令を受け経過報告をしていたのではないだろうか。 |
この先陣から幾度となく第V郭を取り囲み火矢を放つ。矢を放つのも当然風向きも関係してくるのは言うまでもないが、この |
時期冬場(12月〜1月)は富士颪が吹くため風上である西より放った方が風に乗る。 |
平成9年の「深沢城跡調査会」による聞き取り調査に「深沢城から矢を射たのでヤバと呼ばれた」とあるが、この地点は第V |
郭の西側で抜川を挟んだ対岸であることから主戦場で武田軍の攻撃地点ではなかったろうか。 |
12月半ばより始まった深沢城攻めも半月を過ぎ、主郭に攻め込むこともままならず正月になり信玄はついに有名な長文を |
鏑矢につけて送ることになるが、確実に届かせるためにも矢を放つ地点はやはりここであったと思われる。 |
武田氏の衰退と深沢城の役割 |
深沢城開城後の武田氏は御厨地方をはじめ、東駿河をおさえつつ西進していく。北条氏はこの時期は氏康から氏政の時代 |
になっているが、北条綱成の援軍要請からも出陣が遅れ籠城方は耐え切れず開城に追い込まれたのであった。一説による |
と 氏政軍は当時の小田原から駿河へ入る2コース、足柄街道と箱根越えのうち、箱根を越えて三嶋大社で戦勝祈願の後 |
北上 したとあるが、直接足柄峠越えで竹之下に下りたとすれば間に合ったのではないだろうか。いずれにしても結果は武田 |
氏におさえられてしまったわけであり、北条氏としては足柄〜箱根ラインを固めるしかなかった。この後には足柄城・山中城・ |
韮山城が大変重要になってくるのである。 |
一方、駿河の大半をおさえ遠州に進攻していた武田氏は三方原で戦勝しさらに三河へと入りつつあったが、天正元年 |
(1573) 偉大な信玄を病気で失うことになる。しばらくの間信玄の死は隠されていたが、あとを継いだ勝頼はその若さからか |
信玄の遺言も聞かずに長篠・設楽原の戦をおこしてしまった。この戦いで武田氏の両腕ともいえる名将、馬場・山県の2名を |
亡くし追い込まれることになっていくのである。設楽原での織田・徳川両軍の鉄砲隊の前にこれまで無敵であった武田騎馬 |
軍団は完膚なきまでに粉砕されたわけだが、天正3年(1575)のこの年は戦国から全国統一の織豊政権に移る大きなポイ |
ントになる年ではないだろうか。 |
天正10年(1582)3月、浜松から駿河に攻め寄せ富士川沿いを甲斐に進攻してきた徳川軍と信州側より寄せてきた織田 |
軍によって、ついに名門武田氏は滅亡の時を迎えるのであった。しかしながら、偶然か必然かこの年京都本能寺において |
織田信長が明智の謀反によってあえなく最期を遂げる。永禄3年(1560)桶狭間で東海道一といわれた今川義元を討って |
からわずか 22年の間に今川氏・武田氏・織田氏とこの時代天下統一を夢見て、またその力を持った武将がことごとく |
散ってしまった。信長 は信玄を信玄は信長を、上洛して天下統一する最大の難敵だと思っていたはずである。この両者が |
直接対決していたらと考え ると時代はどのようになっていたのだろうか。 |
天目山で勝頼が自刃した報が入り、深沢城を中心に御厨地方を統治していた駒井右京之進は火を放ち逃亡してしまった。 |
深沢城第U郭南西にあった食料庫と思われる場所から掘り出された焼き米や豆はその時のものだといわれている。 |
その後の御厨地方は武田氏から代わって駿河を治めている徳川氏の支配下になった。家康は北条氏に対する備えとして、 |
三宅康貞を深沢城に入れ守らせた。天正18年(1590)豊臣秀吉は徳川家康と手を握り北条攻めに小田原へと向かった。 |
ここ に早雲が大森氏から小田原を奪ってから5代続いた後北条氏はおよそ100年でその幕を閉じることになる。武田・北条 |
ともない今、徳川氏は関東に移封され、駿・甲・相の「境目の城」は全く意味をなさなくなってしまい約80年間で役目を終えて |
しまった。 |
おわりに |
このように15〜16世紀にかけて戦国時代の歴史における重要なポイントとなった「深沢城」の遺構は、昭和35年に静岡県 |
文化財保護条例により「静岡県指定史跡」に指定された。 |
以後、昭和55年には御殿場市により史跡公園化の構想も出され、約1億もの事業費が積算されたようだが、あまりにも |
文化財無視といった都市公園的な案であったために棚上げされてしまった。 |
平成7年北側両河川の合流地点の崩落がひどく護岸工事が始められるが、ここでも遺構保存の観点は最重要視された |
工事計画だったようである。 |
平成11年発行された報告書によると、その後の保存計画においては平成8年に静岡県指定史跡深沢城跡保存管理 |
計画案策定委員会というきわめて長く一度では覚えきれないような名称の組織ができたようだが、この頃から史跡保存 |
管理計画がより練られ具体的にかつ実現に向けて努力されているようだ。 |
しかしながら、この地は何といっても「私有地」であり地権者の理解・協力が不可欠である。事実、3月の第1回目の踏査 |
から6月の第3回目までの間、3つの曲輪をはじめ根小屋・台山周辺等地権者の方々が農作業をしておられた。このように |
本来ならば他人の私有地に勝手に踏み込むわけだから不法侵入にもなるのであろうが、地主さんの深いご理解により遺構 |
の標識 もあり自由に見学もできるようになっている。 |
全国各地で史跡保存において必ず問題になってくるのはやはり「土地の確保」ということであろう。道路や施設の建設に伴い |
調査試掘をして遺構・遺物が発見されればその工事はストップし協議検討が重ねられる。そこが公有地ならば保存計画も |
立てやすかろうが、私有地の場合その権利においてかなり問題も多い。地権者の理解、協力を得て史跡確保においての |
努力が必要である。 |
保存の方法としていくつか挙げられると思うが、前筆した昭和55年のようないわゆる観光地化した計画はなるべく避ける |
べきであろう。公的管理による史跡公園としての保存が望ましいと思うが、私有地の買い上げの問題、維持管理費の問題 |
等々財政面の予算決定を待たなければならない。静岡県には残念ながら「歴博」はないが、市町村立の博物館・民俗資料館 |
は それぞれ建設され管理されている。無論現地保存が理想ではあるが、私見として広域行政においての「歴博」を建設し、 |
例えば静岡県東部において各自治体の予算供出によって維持管理したらどうであろうか。 |
いずれにしても、ここ「深沢城」の遺構は15〜16世紀における有数の史跡であることを改めて認識した次第であり、今後の |
保存計画策定・実行を見守りたいと思う。 |
2003年 記 |
【参考文献】 |
・ 「静岡県指定史跡 深沢城跡 保存管理計画策定報告書」 御殿場市教育委員会 平成11年3月 |
・ 「深沢城」 御殿場市教育委員会 昭和60年1月 |
・ 「駿東地方に於ける城郭の研究」 沼舘愛三 静岡県郷土研究第9輯 昭和12年10月 |
・ 「御殿場地方の中世城址」 伊禮正雄 御殿場市史研究T 昭和50年6月 |
・ 「静岡県文化財調査報告書 第23集 静岡県の中世城館跡」 静岡県教育委員会 昭和56年3月 |
・ 「古代甲斐路・ツナ坂越の傍証」 齋藤泰造 地方史静岡第17号 平成1年3月 |
・ 「富士火山東麓の地形・地質(その1)」 保坂貞治 静岡地学第67号 平成13年6月 |
・ 「駿河記 下巻」 桑原藤泰 昭和7年9月 |
・ 「静岡県史 通史編2 中世」 静岡県 平成9年3月 |
・ 「みくりや物語」 勝間田二郎 平成2年7月 |
・ 「甲陽軍鑑 (中)」 作者不詳・腰原哲朗 訳 昭和54年9月 |
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