身延道(岩淵筋)万沢〜富栄橋



日時・行程
          2014年5月7日
          万沢宿跡(廣福寺) 〜 顕本寺 〜 万沢中学校 〜 国道52号に合流 〜
          蓮久寺 〜 西行地区 〜 (西行公園) 〜 増野地区 〜 切久保地区 〜
          福士川 〜 弁天神社 〜 上福士川橋 〜 矢島公園 〜 峰地区 〜
          弘円寺下 〜 平地区 〜 八幡一宮諏訪神社 〜 坂下地区(富栄橋西詰)


地図

国土地理院地形図



万沢宿・廣福寺前分岐 顕本寺 顕本寺山門前の題目塔 顕本寺東側の題目塔


JR身延線芝川駅近くの芝川会館に車を置いて、芝川駅から電車で十島駅まで行って富士川を渡り
万沢宿跡に向かう。今回のスタートは廣福寺前からだ。9:00門前の左側についている細い道を
登っていく。平になった所に顕本寺が見えていた。真新しい門柱と山門の前の畑の中に数基の石塔が
立っている。その内の題目塔1基が文政3年(1820)とあった。道は東に回り込んで東門の前には大き
な題目塔。五百五十遠忌報恩塔で文政13年(1830)とあり天保に改元した年である。



万沢中学校 中学校下で広い道に出る 北進する 越渡で国道52号に合流


このあたりの道は正直言ってどこを通ったのか確定は難しい。万沢中学校から下に降り廣福寺前
からの広い道に出る。ここを北進して越渡で国道52号に合流する。合流地点手前に石祠道祖神が
見えていた。



越渡の石祠道祖神 蓮久寺 西行の渡船場 西行地区に入る


石祠は4本の忌竹で囲まれた結界の中にあり、道祖神・至誠如神と刻まれている。道祖神の向こう
の赤い屋根が蓮久寺。小さな堂宇の前には2基の石塔があった。1基は題目塔、延享5年(1748)
とあり、もう1基は五百遠忌碑で辛丑十月とあり天明元年(1781)であろうか。蓮久寺を過ぎ国道を
北に進むと渡船場というバス停があった。甲斐国志や万沢村誌に出てくる十島村への渡しであろう。



西行地区内の題目塔 西行地区から西行峠 西行地区奥の分岐 西行峠への登り口(推定)


9:40渡船場の次のバス停が西行である。バス停から西の山の方に向かって西行地区に入っていく。
左手に1基の題目塔を見るも設立年は不明。地区内の細い道を西行峠めざして進む。やがて十字の
分岐点。ここも西行峠に向けて右折する。さて突き当った斜面の入口は木立の中、道も踏み跡程度
のものと思われ、西側に伸びていたはっきりとした道に進んでしまう。本来の西行峠への道は先程の
所らしいが現在では不明であるようだ。



西行峠への自動車道 西行公園入口 西行公園下段 西行公園中段


3月に下見に来た時には国道52号から車で西行峠下まで自動車道がありこちらを登ってきた。
きれいに整備された西行公園となっていて、展望もよく静かで心地よい場所であった。3段に分か
れている公園の中段には石祠道祖神が。そして上段の建物脇には甲駿往還の切久保へと書かれた
看板が付けられていたが、ずいぶん後になっての下り道であろう。



西行公園内の石祠道祖神 西行公園上段 甲駿往還(切久保へ) 増野への登り口(推定)


実際には最上段の左手にさらに登る道があるらしく、中世から近世にかけてはここを登って増野に
出ていたと思われる。最上段の平地には石碑がありここから東を見て山のくぼみに見える富士山
がまるで盆にのせたようで「盆中の富士」と呼ばれる名所であるらしい。



増野地区に向かう 竹林を強行突破 西行峠からの自動車道 増野の道祖神・常夜燈


さて西行地区の奥から峠への登り口がわからず迂回して登っていくと、増野方面に向ってしまった。
道はやがてなくなり竹林に遮られる。しかしこのすぐ上には自動車道が通っているのは下見で
わかっていたので強行突破。最後は薮をこぎ相当な急斜面から飛び出した所は増野地区の入口
であった。10:06何とか西行峠は飛ばしたものの増野に着く。



増野地区 増野地区を登る 倒木も撤去されていた 切久保地区最上部


増野地区の1番下にある石祠道祖神と慶應元年(1865)の常夜燈で小休止して坂を登っていく。
やがて増野の上尾根の先までくると、3月の下見で荒れていた道もすっかりきれいになって非常に
歩きやすかった。おそらく西行公園最上部からの尾根道はこのあたりに出ていたのであろう。
3月の時と違って苦も無く切久保地区に下りてくる。



切久保地区の石祠道祖神 切久保地区の馬頭観音 国道52号に出る 福士川右岸を遡行


下りきる途中の右手に新しい石祠道祖神があるが、上を見ると尾根上に細い道が伸びていて、
増野地区の上からこの尾根を下って切久保まで道があったのだろうか。右手に3基の馬頭観音を
見ながら下っていき国道52号に出る。身延道としては国道に出る前に前方に立ちふさがった
南西側に伸びた尾根を越えて向島へ下りていたと思われたが登り口がわからず迂回する。



弁天神社 上福士川橋の石祠道祖神 川を渡り矢島地区に入る 矢島公園前を登る


迂回して国道に出てからすぐに福士川を渡らずに右岸を遡行する。7分も歩いて左を見ると
弁天神社がありその裏に尾根から道が下りてきているのが見えた。本来はここに出てくるので
あろうか。弁天神社から福士川を渡る。手前に明治5年(1872)の石祠道祖神が立派な小堂に
納められていた。中をのぞくと大正7年の移転棟札が見えている。上福士川橋を渡ると川沿いに
下っていくが元治元年(1864)の橋供養塔を見ながら矢島公園前の細い坂を登る。



峰地区入口の念仏碑 峰地区の馬頭観音群 峰地区 峰地区から弘円寺下へ


ここからは峰地区を通り平地区に向かう。峰地区への登り口に文化7年(1810)の念仏碑と馬頭観音。
坂を上がった所に6基の馬頭観音があった。峰地区を通り過ぎる。中心部で右折して下っていく。
峰地区から下りきる手前で樹林の中左手に下る細い道がある。ここを下ると弘円寺の下に出る。



弘円寺下の題目塔群 中島地区 平地区入口 平の丸石道祖神@


下に降りると数基の遠忌碑、1番新しいものは七百遠忌だから昭和56年(1981)か。さて中島地区
から山裾を通り平地区に入る。入口の用水路の上に丸石道祖神。平地区には3基の道祖神があり、
2基が丸石で3基目が双体道祖神である。しかし3基目のものは作り変えられていて元は石祠で
あった。



平地区を北進する 平の丸石道祖神A 山裾を北進していく 平の双体道祖神


2基目の丸石道祖神の前に来る。資料では台石に安政6年(1859)と書いてあったが台石は造り
変えられているようで不明だが、丸石自体はその年代のものであろうか。さらに進んで3基目の
平の道祖神は平成元年(1989)の握手型双体道祖神が身延道の筋からやや東寄りの所にあった。



八幡一宮諏訪神社 T字路に当たる(坂下地区) 左折方向が身延道 坂下地区(富栄橋西詰)


このあたりは所々中部横断道の工事個所があるが、工事現場を通りながら進んでいく。左手の畑地の
中に八幡一宮諏訪神社の社殿が見えてくる。もうこの先が坂下地区になる。T字路に当たると左が
身延道で真篠地区に向かうが、今回はここまでにして坂下地区の富栄橋西詰で帰途につく。
到着時刻12:04、約3時間で地図上の距離は山間部が不明だが、およそ9.4kmであった。



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