東海道(箱根峠~三島宿)



日時・行程 
          2010年4月10日 
          箱根峠 ~ 茨ヶ平 ~ 接待茶屋 ~ 大枯木坂 ~ 山中農場 ~ 
          山中城址 ~ 富士見平 ~ 笹原新田 ~ 三ツ谷新田 ~ 松雲寺 ~ 
          市の山新田 ~ 法善寺 ~ 塚原新田 ~ 初音ヶ原 ~ 今井坂 ~ 
          川原ヶ谷 ~ 新町橋  


地図 

          国土地理院地形図(三島)     現地住宅地図(ゼンリン)      



 箱根峠  親不知子不知 境木  茨ヶ平 


箱根峠は伊豆と相模の国境、今で言えば神奈川県の箱根町と静岡県の三島市・函南町の県境である。 
標高830mの峠は芦ノ湖スカイライン、伊豆スカイラインとの交差点でもある。地名も境木という。また、
その一角に伝説の 親不知子不知の石碑も建つ。ここをスタートに近世の箱根西坂を下っていく。 
すぐ下に広い駐車場と休憩スペースがありゴルフ場への入口から海の平方面へ。やがて左側に旧街道 
入口の看板が建ってありここが茨ヶ平である。ここに石柱があって江戸まで25里、京都まで100里と記 
されていた。 



 箱根旧街道入口  兜石休憩所 八ツ手観音像  兜石跡 


旧街道入口を下りるとすぐに休憩所の東屋が見えてくる。脇の道を入ると井上靖の箱根八里の記念碑。 
休憩所のすぐ下には八ツ手観音の石像が立っている。ここからしばらくは篠竹(箱根竹)のトンネルだ。 
さらに進むと秀吉が兜を脱いだという兜石、国道工事で現在は上の部分を切り取って接待茶屋に移さ 
れている。 



 接待茶屋 接待茶屋説明板の脇の一里塚  山中一里塚  兜石 


接待茶屋では江戸時代箱根山金剛別当が旅人の困窮に無償で粥や焚火などを施したことがあった。 
この地は江戸より26里目の山中一里塚が残っている。往還道北側のものはないが、南側のものは 
しっかり保存されていた。 



 石原坂 念仏石  大枯木坂  山中農場 


兜石を過ぎると石畳の道になる。石原坂は別名「石割坂」とも呼ばれ、ローム層で滑りやすいため、 
延宝8年(1680)に石道が造られたという。石原坂を下っていくと右手に高さ1mばかりの自然石 
に「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と彫られた、地元では念仏石といわれる石碑が建っている。道標に従い 
やや登って木立の開けた坂の下りが大枯木坂だ。やがて坂の下に建物が見えてきて山中農場に 
出る。 



 農場前で国道を渡る  願小路石畳 雲助徳利の墓  山中新田入口 


山中農場の庭先を通り、二又の道は左側の国道に出て渡る。向かい側は標識の下、階段を下りると 
願小路石畳が続く。延宝8年の石畳を三島市は発掘調査の後平成7年(1995)に466m復元整備 
したという。針葉樹林帯の中、見事な石畳が山中新田まで700m余続いているがこのすばらしい 
景観は後世までぜひ大事に残してもらいたいと思う。山中新田に入る手前、石原坂から移された 
雲助徳利の墓という盃と徳利を浮き彫りにした珍しい墓石を見る。 



 山中城址本丸下の標識 三ノ丸跡の史跡案内図  小休本陣「笹屋」跡  宗閑寺 


山中新田に入ると国道に架かる歩道橋を渡り山中城址に向かう。本丸跡の下から国道に沿って三ノ丸 
跡にある公民館と宗閑寺に行く。公民館前の広場の隣が小休本陣「笹屋」の跡だと思われるがその 
標識も何もない。山中城址については数年前何回も訪れているため先を急ぐ。 



 一柳直末の墓 立場「松屋」と間宮康俊の墓   芝切地蔵堂 芝塚 


宗閑寺には天正18年(1590)の山中城攻防の折、戦死した武将の墓が建てられその菩提が弔われ 
ている。立場「松屋」の墓は確認できたが、松屋のあった地は確認できない。宗閑寺門前から国道を 
カットするように岱崎出丸方面に向かう。途中の右手に一段高くなった所、元は南櫓があった所に 
芝切地蔵堂と芝を積み上げた芝塚を見る。 



岱崎出丸  岱崎出丸下の馬頭観音  出丸下の旧街道石畳  富士見平ドライブイン 


芝切地蔵堂から国道を渡り岱崎出丸。ここは毎年山中城祭りが行われる広大な城址公園である。何度 
訪れてもゴミ一つ見られない本当に大事に史跡を利用している三島市に敬意を表したい。必ずここで 
休憩することにしているお気に入りの場所だ。出丸下に旧街道は下っている。石畳の道を辿ると右側に 
小さな馬頭観音。やがて出丸先端部分でまた国道を横断、少し回りこんで富士見平の広い敷地にドラ 
イブインが建っている。晴れていれば富士山の眺めの絶好の場所である。 



上長坂(かみなり坂)  笹原一里塚手前の石塔群  笹原一里塚表示石板  笹原一里塚 


富士見平から国道を渡り上長坂、通称かみなり坂を下る。笹原に出る手前には石仏石塔群が見られ、 
左手に小高くなった笹原一里塚が残っている。ここは南塚のみ残り北塚は畑に開墾されていた。笹原 
は江戸より27里目の一里塚であって、三島宿まで1里18町およそ6kmである。 



 笹原新田の庚申塔 笹原新田国道下の道祖神  笹原新田  一柳庵 


笹原一里塚に登り一回りして国道に出る。出たところに庚申塔が建っている。横断歩道を渡り、笹原 
新田の集落の中を下っていく。すぐ脇に道祖神が祀られ、細い道がまっすぐに続く。しばらく行くと右手 
に一柳庵として山中城で散った一柳直末を弔い墓石とともに庵が建てられていた。 



 下長坂(こわめし坂) 三ツ谷新田の標識  松雲寺本堂  寺本陣跡 


笹原新田を通る下長坂は通称こわめし坂と呼ばれる。米と小豆を背負って登ると「こわめし」になった 
という言い伝えかららしい。坂を下ると三ツ谷新田。ここは将軍・大名などの休憩所となった寺本陣で 
あった。松雲寺付近には茶屋本陣や立場といったところが絵図や地誌に表示されているものの、実際 
どこがその跡にあたるのかは判明できなかった。 



小時雨坂と坂地区  坂公民館横の法善寺旧跡  七面堂旧跡  題目坂 


三ツ谷新田を抜けると旧街道が国道と並行して通っている所、坂地区に入ってくる。小学校の向かい側 
公民館の隣に法善寺旧跡の石塔が建つ。元禄時代に創建された日蓮宗の寺院は幾多の変遷の後に 
現在の市の山新田に移されたそうだ。小時雨坂から坂小学校、公民館や七面堂跡から見て、当時の 
法善寺境内がいかに広大であったか、ここを通る坂を題目坂と呼んでいることからも頷ける。 



 市の山新田の標識 市の山新田入口の山神社  現在の法善寺  市の山新田下の地蔵堂 


題目坂を下りた所が市の山新田。東入口に山神社と移転された現在の法善寺が建っている。どうも 
このあたりに高札場があったようだ。全くその形跡もなく説明板も見あたらない。新田下に地蔵堂。 
六地蔵とともに時代も判別できないような石碑もあるが、この地蔵堂も「軒下の美術館」として写真 
パネルが飾られていた。そういえば、今まで下りてくる中でいくつかのパネル展示があった。あまり 
目立たないがここ五新田地区での取り組みのようだ。 



 臼転坂 路肩の馬頭観音  普門庵の石仏群  普門庵 


もうずいぶん西坂を下ってきたが、箱根西坂五新田部落の一番下の塚原新田に入る手前に臼転坂 
(別名牛ころげ坂)があるが、どうも呼び名の由来はわからないようだ。馬頭観音の石碑、普門庵の 
石仏群を見て塚原新田。新田の中ほどに建つ宗福寺は天正18年の山中城攻防での戦死者を追悼 
するために建てられたということが「豆州志稿」に書かれている。 



塚原新田の宗福寺  箱根路の石碑  錦田一里塚の北塚  一里塚と復元された石畳 


宗福寺で休憩してさらに下ると国道に合流する。合流地点にある大きな石碑。三島宿から登ってくると 
この石碑からいよいよ箱根旧街道も登りが始まるといった感じなのだろう。箱根路と書かれたこの大石 
は西坂のシンボルとなっている。しばらく国道を下る。初音ヶ原からおよそ1kmばかり続く松並木は 
当時の面影を残す貴重な情景で、江戸より28里目に当る錦田一里塚が保護されている。一里塚の 
南北両側ともはっきりと残っているものは非常に珍しく国の史跡に指定された。 



 錦田一里塚南塚 愛宕坂  新町橋西詰の無縁法界地蔵尊  新町橋(三島宿東木戸) 


東海道で両側とも残っている一里塚は確か4ヶ所くらいではなかったか。初音ヶ原から川原ヶ谷に入って 
行き愛宕坂を下る。最後の今井坂を下りるとJRの踏切を渡りもう平坦な道路。ここが宿場の東のはずれ
を示すように境川(大場川)に架かる新町橋の西詰には斬罪となった者の霊を慰める地蔵尊が祀られて
いる。新町橋に西詰に東木戸があったという。ここから三島宿に入ることになる。   



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