熊谷うちわ祭
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| 撮影日 2013, 7, 21 | ||
| 1 神社 |
| 神社名 愛宕八坂神社 |
| 所在地 埼玉県熊谷市鎌倉町44 |
| 創建 大永2年(1522)愛宕神社 文禄元年(1592)愛宕八坂神社 |
| 社格 不明 |
| 祭神 素戔嗚尊(スサノオノミコト) |
| 火産霊命(ホムスビノミコト) |
| 神紋 左三つ巴紋 木瓜紋 |
| 由緒 大永2年大善院三世行源法師は、火事の多かった熊谷の街の火災防止 |
| のため、京都の愛宕神社を邸内に勧請して祀った。続いて文禄元年に |
| 疫病退散を祈って京都の八坂神社を勧請してきて、商売繁盛の稲荷社 |
| と共に合祀するようになった。現在は京都八坂神社の末社として、宗教 |
| 法人としては「愛宕神社」として登録されている。 |
| 2 祭典日程 |
| 7月20日・21日・22日 |
| 訪問日 2013,7,21(日)・22(月) |
| 【第一日目】 午前 迎え太鼓 渡御祭 |
| 午後 山車巡行 初叩き合い(熊谷駅前) |
| 【第二日目】 午前 山車町内巡行 |
| 午後 巡行祭 4町叩き合い(上熊谷駅前) 2町叩き合い(銀座) |
| 全町叩き合い(八木橋前) 全町叩き合い(鎌倉町広場) |
| 【第三日目】 午前 行宮祭 |
| 午後 曳き合わせ叩き合い 3町叩き合い(熊谷駅前) |
| 5町叩き合い(八木橋裏) 8町叩き合い(八木橋前) |
| 全町叩き合い(中家堂前) 年番送り 還御祭 |
| 3 山車・屋台 |
| 種類 山車 |
| 台数 全12台 (山車 6台 屋台 6台) |
| 型 川越型唐破風付3層勾欄人形山車 6台 |
| 唐破風大屋根舞台屋台 5台 |
| 四方唐破風付大屋根舞台屋台 1台 |
| 方向転換 3輪 (可動式前輪 運転席足ペダルで方向転換) |
| 後輪にホイールブレーキ |
| 人形 有(山車6台) |
| 囃子 太鼓・笛・鉦 |
| 4 山車・屋台 詳細 → 詳細ページへ |
| 第壱本町区 川越型唐破風付3層勾欄人形山車(人形=神武天皇) |
| 第弐本町区 川越型唐破風付3層勾欄人形山車(人形=手力男命) |
| 筑波区 川越型唐破風付3層勾欄人形山車(人形=日本武尊) |
| 銀座区 川越型唐破風付3層勾欄人形山車(人形=熊谷次郎直実) |
| 荒川区 川越型唐破風付3層勾欄人形山車(人形=大国主命) |
| 仲町区 川越型唐破風付3層勾欄人形山車(人形=素戔嗚尊) |
| 彌生町区 大唐破風造舞台屋台 |
| 伊勢町区 大唐破風造舞台屋台 |
| 鎌倉区 大唐破風造舞台屋台 |
| 櫻町区 大唐破風造舞台屋台 |
| 本石区 大唐破風造舞台屋台 |
| 石原区 四方唐破風造舞台屋台 |
| 5 所感 江戸型山車の出る祇園祭として、熊谷のうちわ祭は必見でしょう。ただ、祇園祭は |
| 旧暦6月で現在行われている全国各地の祇園祭が新暦7月半ばがほとんどである。 |
| そして、熊谷という土地は関東平野の内陸で非常に暑い。8月には毎日35度以上 |
| らしい。7月も20日頃ではそのくらいの気温は覚悟していかねばならない。 |
| こう思いつつ十分な準備をして熊谷に乗り込んだ。7月20日は今年土曜日だった |
| ので、だいぶ前から祭典会場近くのホテルがとれず、21日・22日の1泊で見学した。 |
| 祭典スケジュールを見ていて2日目の山車曳き回しは午後からで、せいぜい昼前 |
| ころから町内曳き回しだろうと思いながら、計画通り9時半ころホテルに到着。車を |
| おいて、早速なるべく遠くの町内から山車置場に向かう。 |
| 2日目の巡行祭は午後1時から。その前に山車置場でできるだけ山車の構造・ |
| 細部の彫刻を確認しておきたい。午前中回っている中で、町内を1回りしてきた |
| 荒川区の山車をゆっくり見学するチャンスを得た。荒川区は1昨年まで昭和23年の |
| 屋台を曳いていたが、昨年(平成24年)に新調した町内だ。まだ真新しい山車は |
| 見ていて気持ちがいい。型は熊谷の他の5台と変わらず江戸型でも前部囃子台に |
| 唐破風の付く分類上の川越型である。3層勾欄の鉾台を後部にもち、上層鉾台の |
| 上に人形を乗せる。人形も地元熊谷で6代続く名家、長野屋綱季六代目の小谷野 |
| 宏樹師の力作「大国主命」である。人形を上げる鉾台は後部に巻き上げのロープ |
| が付いていて、滑車によって鉾台上層と人形を上下させるようだ。 |
| 前に回って運転席を見る。熊谷の山車・屋台はすべて3輪であり、前に突き出た |
| 前輪の後ろに運転席があって、子供用三輪車のように前輪のシャフトに付けられた |
| ペダルに両足を乗せ車輪の向きを変える。3輪だから結構小回りが利くのが特徴だ。 |
| 午前中では完全に見て回れないので、また休憩時間にと思いながらお仮屋(行宮) |
| の設置されているお祭り広場に向かう。 |
| 午後1時から始まる巡行祭は、八木橋周辺の集合場所から年番町を先頭に国道を |
| 西に向かい石原で折り返し本石・石原の両町内が後に続く。やがて市役所通りに |
| 来ると右折してお仮屋のお祭り広場まで1列で入場、行宮参りをして折り返す。 |
| 巡行についていかなくてもお祭り広場周辺に待機していれば全山車・屋台を見る |
| ことは可能だ。 |
| ゆっくりと昼食を済ませ休憩をとり午後2時過ぎにお仮屋の東側で入場してくる側に |
| 陣取った。午後2時半、国道から右折して入ってくる先頭の姿が見えてくる。桜の |
| 大使と呼ばれる「熊谷うちわ祭」と書かれた横断幕を4人で持つ女性が先頭だ。次に |
| 宮司、神職、巫女、そして役員、来賓、大総代から総代長やら次々に裃正装して |
| 入場してくる。山車の1番手は今年の年番町である宮本、鎌倉區の屋台から。続いて |
| 山車6台の後に屋台が5台囃しながら行宮参りを行っていた。やはりこの場所が |
| 絶好の撮影ポイントであろう。 |
| うちわ祭の起源を辿ってみると、熊谷の町の中を荒川が曲がりくねって通り、川辺の |
| 町では氾濫することから疫病が蔓延したりした。そこで室町時代末期に愛宕神社境内 |
| に京都より八坂神を勧請合祀した。それから祇園祭の形態をとっていくことになるが、 |
| 現在のような祭りの形になるのは江戸時代の中期、寛延3年(1750)町民が町役人に |
| 願い出て夏祭りを挙行したことからになる。 |
| 最初の内は神輿祭りであった。その後一旦祭りも衰退し、再び天保年間になってから |
| 活気を取り戻すようになったが、山車祭りに変わるのは意外にもまだずっと後の明治に |
| 入ってからのことである。明治24年(1891)第二本町區の中家堂菓子店初代の中村 |
| 藤吉が江戸神田で紺屋が個人で所有していた山車を買ってきたことから始まるのだ。 |
| それからこの山車を参考に第一本町區が地元で初めて山車を造ったのが明治31年 |
| (1898)であって、それから筑波・鎌倉・仲町と後に続いてくる。 |
| 江戸時代の祭りでは各地で親戚筋とか料理や赤飯を配っていた。熊谷でも同じように |
| 赤飯振る舞いが名物となって明治の中後期くらいまで続いていたのである。しかし、 |
| ある年泉屋横町にあった料亭{泉州」の5代目主人が、日本橋の老舗「伊場仙」の |
| 渋うちわを配るようになってこれが評判になり、他の商店でも祭りの日買い物をすると |
| 赤飯の代わりに渋うちわを配ることになっていった。そこで、いつしか熊谷の祇園祭を |
| 「熊谷うちわ祭」と呼ぶようになっていった。 |
| 山車・屋台の巡行で囃子は神田囃子の流れをくむというが、締太鼓3人が正面に座し、 |
| 大胴が左側面に吊るされ、右側面は1尺2寸というから約35cm程の大きな鉦が3つ |
| 吊るされてガンガン叩いている。その音響に最初は圧倒されるものだ。 |
| 今回の1泊2日の見学で、もう1点翌日(3日目)の行宮祭のことをご紹介したい。 |
| 午前9時からお仮屋の行宮で宮司役員の玉串奉奠の後に正装烏帽子を被った大総代 |
| 自ら作った祝詞を奏上する。この大変ユニークな行事も祭りの見どころとなろう。 |