吉 原 祇 園 祭


山車・屋台 調査報告書



 吉原祇園祭に関しての文献史料は極めて少ない。これまで6年間の調査の上で認められた資料関係
は古写真と明治時代に書きとめられた若干の記録しかない。従って「吉原祇園祭」としていつから始め
られたのか、天王神輿がいつからあったのか、山車・屋台はいつから曳き始められたのか、決定的に
始期を確定することはできない。しかしながら、認められた資料の中である程度祭典の外貌がわかって
きたことは今まで本格的な調査が行われてこなかった歴史を解明することにおいて重要な意味合いを
もった。調査の全体像については本年刊行された富士市教育委員会発行の「報告書」の内容に譲ると
して、ここではその中で第3章山車・屋台と囃子の内から抜粋しながらまとめてみたい。
 「吉原祇園祭」は江戸時代末期あたりから天王祭として神輿祭りを行っていた。もちろん天王祭である
から牛頭天王をまつり疫病退散の祈りを込めた祭りであった。いつから祇園祭と呼称を変えたのか定か
ではないが、いずれにしても京都で始まった祇園祭が全国に波及した末端であることには間違いはな
い。
  『京都で始まった祇園祭は何百年もかけて全国各地に伝わっていった。その歴史は平安時代に
さかのぼり、御霊信仰の流行によって都の周辺で行われていた御霊会の一つとして牛頭天王をまつ
る祇園感神院で行われていたものである。平安時代の末期以降は田楽が中心となるが、山・鉾の
巡行が祭の中心になるのは南北朝以降で、室町時代に入ると町衆の財力によって毎年趣向を凝ら
した山・鉾を工夫して出すようになった。
 京の町で盛況を極めた祇園祭は形を変えて都市的な夏祭りとして、祇園祭・天王祭という名になり
全国津々浦々まで広がっていくのである。』
 京都祇園祭は平安時代から徐々に、放射状に全国に広がっていった訳だが、関東近辺では江戸
に入って徳川政権の安泰のもとに町民文化として根付いていく。やがて江戸から関東各地へそして
東海道を西の方へ静岡県にも伝わってきた。

  『慶長8年(1603)徳川家康によって江戸幕府が開かれると、京文化の潮流は江戸

へと流れるが、風俗や人情において異なる江戸の町では、京文化を江戸化して発展していく。
 江戸城中に勧請していた山王社は徳川家康が江戸城に入城した以降も江戸城総鎮守として位置づ
け、徳川家の産土神としてまつられていった。そして、この山王権現と江戸の町の総鎮守であった
神田明神の両祭礼は、江戸城内に山車行列を持ち込んで将軍の上覧を得たことから「天下祭」と呼ば
れるようになったのである。』
京都祇園祭で曳かれている山鉾と違って江戸の祭典では独特の山車・屋台が作られ曳かれるように
なった。そして江戸型山車として葛西囃子とともに関東東海地区へと流れていくのである。
  『江戸型山車の初期には車がなく花万度を肩で担いでいたが、次第に巨大化してくると危険性を
感じて車をつけるようになる。寛永11年(1634)になると牛車が登場し、二輪の台車に高欄を回し
万度を付け花を垂らす。最上部の岩座には飾り物、主に人形を据えて牛に曳かせる。遠州横須賀で
曳かれる祢里のような山車であった。
 このような「一本柱万度型」といわれる山車は、江戸時代中期から文化年間(1804〜1817)頃に
全盛期を迎えるが、将軍の上覧を得るために江戸城の城門をくぐるには非常に都合が悪かった。
そこで鉾台型の山車が考案され、外枠の中に内枠と人形を納めるという三層構造にして城門を
くぐったのである。
 では屋台はどうであろうか。「神田明神祭礼絵巻」を見てみると、後方の行列で山車に続く踊り
屋台と朝顔形の底抜け屋台描かれている。
 踊り屋台というのは破風屋根か両障子屋根で四本柱であり、周囲に高欄を回し四方に枠を組ん
で肩で担ぐようになっていた。また、囃子屋台は障子屋根に造り花を飾り、四本柱の四方に枠を
組み担ぐようになっていた。この囃子屋台は底抜けで、その中で歩きながら囃していたのである。』
 吉原における山車・屋台の型、形状についても江戸型を改良発展させたものといえ、屋台の3台も
破風の形は切妻と唐破風の違いがあるにせよ、付け祭りの踊り屋台に囃子方を乗せたものである。
  『関東・東海・中部と各地で開催されている山車祭りを見てくると、全盛期であった江戸後期の祭礼
形態がどこまで広がったか非常に興味深いものがある。関東一円の祭礼が江戸の影響を受けている
のは間違いないであろうが、山車・屋台の形状はもとより山車行列の形態においても、先導する猿田
彦や手古舞の存在も江戸型祭礼に分類する大きな手がかりとなろう。』
 手古舞とは山車行列の警護(警固)役のことである。神が乗った神輿や山車はもちろんだが、年々
盛大になっていく行列全体の警護をする役目もあった。そして、その任務を負ったのが当時誕生した
町火消しであり、屈強な体格をした人足たちであった。この者たちを「梃子の者」とか「鳶の者」と呼んで、
その頭領格の者を「梃子の前」といっていたことからきているのだと思われる。
 やがて行列も巨大化してくると、付け祭りの屋台での踊りも盛んになり町の女性や芸者衆も参加して
くるようになる。そして梃子の者からその役割は錫杖である金棒を持ち、裁っつけ袴をはいた男装の女
性が行列の露払い役として先頭に立つことになっていった。このような「手古舞」は今でも関東の山車
祭りに多く見られ、かつては吉原でもその姿をした女性が写真に写っている。
  『江戸型の祭礼文化がどのように伝わってきたのか、山車・屋台の形状についてのみ静岡県の分布
図を作ってみた。これによりわかることは、東部から中部にかけては完全に江戸型の山車・屋台が地方
に広がることによって次第に変化し、その土地独自の形が生まれてきたことである。本来の江戸型は
静岡浅間神社に残り、江戸型が改良され完成形に近い川越型は富士宮や吉原六軒町に見える。そして
東から伝わっただけでなく遠州横須賀は直接東京から初期の山車型を学び現代までしっかりと継承して
いる。横須賀からは周辺の町々まで広がっていった。
 地図上で見て、大きな特徴は大井川と天竜川に挟まれた東遠地区であろう。天竜川西岸の浜松から
愛知県に入るともう江戸型の姿はなく、京都からそして愛知県津島の影響が見えてくる。』
 山車・屋台とともに囃子についての伝播も、江戸の葛西囃子から生まれた神田囃子が江戸囃子の
代表格となって関東一円に伝わり、その土地その土地でのアレンジが加わって流れてきた。囃子の
リズムというものは耳と口で伝えられるものであり楽譜などないわけであるから、見聞きする者が囃す
リズムは当然その者の聞き覚えたリズムとなってその土地の後世に伝えられる。
 東海道を西に流れた神田囃子は西湘地区の大きな城下町、小田原が中心となり周辺に散った。
中井・松田・山北から御殿場へそして吉原に流れてきたことは想像がつくものであろう。実際、中井町
五所八幡における山車囃子は小田原囃子というが、吉原祇園祭で囃すリズムに酷似している。また、
その曲名を吉原では「オダワラ」と言っているのもうなずけることだ。
 吉原祇園祭ではもう一つの囃子の流れがある。これは北関東の伊勢崎・桐生・熊谷などで囃されて
いる「参手古囃子」と言われている神田囃子系ではあるが、独特の粋な調子であり、桐生から吉原に
引越して来た方より直接六軒町が習得したリズムであった。おそらく吉原宿東部地区(天神社から東)
では小田原からの囃子の流れ、そして六軒町から周辺にサンテコ(参手古)のリズムが伝わっていった
のではあるまいか。
 それにしても山車・屋台・囃子のどれをとっても江戸型祭礼が吉原にも入ってきたことに間違いは
なかろう。
 かつて、屋台に芸者衆が乗り今の五人囃子に三味線も加わり、男装の手古舞が山車行列の先導を
して吉原の本町通りを曳いていた姿を思い浮かべるに、これからの吉原祇園祭のあり方をよく考えて
改善すべきは改善し、踏襲すべきは踏襲していくよう議論する時期がきているのではないだろうか。


※ 参考文献  富士市文化財調査報告書第4集 「吉原祇園祭」  2014年3月 富士市教育委員会


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