日時・行程 |
2017年 7月30日 |
元吉原(木之元神社下) 〜 近世東海道 〜 河合橋 〜 依田橋(旧国道1号) 〜 |
吉原橋 〜 和田川河口 〜 浮島神社 〜 小潤井川 〜 日医工前 〜 |
新幹線高架下側道 〜 前田跨線橋下 〜 前田橋(潤井川) 〜 前田交差点 〜 |
前田浅間神社 |
地図 |
明治20年測量地形図 ・ 現代道路図比較 (青が現代の道路) |
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元吉原 木之元神社下 | 鈴川 JR吉原駅入口 | 河合橋手前の馬頭観音 | 馬頭観音(天明3年) |
9:25(推定)元吉原宿の木之元神社下を出発点にする。JR東海道線のなかった時代はおそらく |
地蔵堂を下ってきたこのあたりから北西に真っ直ぐ河合橋まで道があったんではないだろうか。高台 |
から見るとよくわかるが、今は東側に回り込んで踏切を横断するしかない。慶長6年(1601)に整備 |
された近世東海道を行く。出発点が海抜3.9m、吉原駅入口で2.6mとこのあたりは歴史上でも |
わかるように高潮の被害があってもおかしくない。河合橋(慶長7年架橋)南詰に馬頭観音1基。 |
側面に天明三癸卯年(1783)と刻まれている。 |
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河合橋(沼川) | 東海道 鈴川から依田橋 | 旧国一 依田橋西交差点 | 吉原橋(和田川) |
沼川は浮島沼(かつては須津湖とか廣沼ともいった)から愛鷹山麓を下ってきた滝川・赤渕川・須津川 |
春山川等を集めて広大な低湿地を流れ下って現在の田子の浦港に注いでいる。愛鷹山と南側の沼津 |
から延びている砂嘴(千本松原)の間に広がる浮島沼は放水路ができる以前の江戸時代までは数々の |
水害に襲われてきた土地である。今でも河合橋から赤渕川合流地点あたりまで川の流れがゆっくりと |
逆流している。河合橋を越え旧国道1号線(現 国道139号線)依田橋西交差点に出る。ここから |
北に向かえば近世東海道で依田橋地区。交差点の上には東海道新幹線と現国道1号線が高架で |
通っている。また富知六所浅間神社から流れ出た和田川の吉原橋がある。 |
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吉原橋 和田川右岸 | 吉原橋から下流を見る | 和田川右岸の道 | 和田川河口 三股淵 |
和田川は富士山の伏流水が富知六所浅間神社に湧き出た宮川が新吉原宿の北側を流れ吉原湊で |
沼川に合流している。吉原湊は現在の田子の浦港。かつては古郡氏三代の尽力によって築かれた |
富士川の「雁堤(かりがねづつみ)」の完成した延宝2年(1674)以前には富士川の流れは幾筋にも |
分かれて東端はこの和田川あたりまできていたという。和田川右岸が吉原橋の現在の海抜3.7m。 |
吉原橋のすぐ南側が沼川への合流地点。江戸時代には沼川となってもう少し先に吉原湊の渡し場が |
あった。合流地点は三股淵と呼ばれ深く大蛇が棲み生贄伝説のある所だ。 |
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新幹線高架下側道 | 浮島神社 | 浮島神社北の馬頭観音 | 馬頭観音(詳細不明) |
吉原橋から和田川右岸の道を新幹線高架下まで行き側道を西に向かう。実はこの道がどこを通って |
いたのかは現代の道に比定できない。度重なる津波高潮の被害、特に延宝8年(1680)の被害は |
依田橋西側の中吉原宿を含む中河原・田島・外木・荒田島・津田と村々や道をすべて流してしまった |
という。したがって田島村の産土神として祀っていた浮島神社の創建も不詳だが、西隣の公設市場が |
できる前には100m程北側にあったというから下街道と言われていた江戸初期の道はもう少し北側に |
通っていたのかもしれない。いずれにしても現在は側道しか道がない。 |
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小潤井川に突き当る | 橋がなく上流に迂回 | 小潤井川左岸(迂回) | 小潤井川渡った島田橋 |
やがて側道は小潤井川に突き当る。小潤井川は現在の伝法(中桁)から潤井川の分流として吉原の |
町を流した用水である。詳細ははっきりしないが江戸初期には(この下街道が使われていた時代) |
なかったものと思われる。そのまま渡る橋がないのでやむを得ず上流側に迂回。公設市場西の橋も |
現在通行禁止のため旧国道1号線まで大幅に回り込む。小潤井川が公設市場西からほぼ90度西に |
曲がった所の島田橋を渡って元の新幹線高架下まで戻る。 |
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日医工を西側に回る | 新幹線高架下側道 | JR東海道線に突き当る | 前田跨線橋下の歩道橋 |
新幹線高架下に日医工の大きな工場があり、南側に新幹線の側道が通っている。ここを西に進んで |
行くと、JR東海道線に突き当るので少し回り込んで前田跨線橋の下に出る。ここで東海道線の東側に |
広がる倉庫地帯を歩いてみる。地図上ではこのあたりが仏原というようだ。仏原というのは三股淵の |
生贄伝説の保寿寺があったとされる所です。しかし今では石塔をはじめ何のそれらしき名残もなく |
しかたなく跨線橋下の歩道橋(東海道線の跨線橋)を渡る。 |
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東海道線の跨線橋 | 前田橋(潤井川) | 前田橋から河口を見る | 前田に入り右折 |
歩道橋を渡ると前田地区に入っていく。やがて潤井川が見えてくる。前田橋から下流を見るともうすぐ |
潤井川の河口が見えている。これも和田川と同様、田子の浦港として吉原湊が広げられたからで、 |
当時はもっと先まで潤井川が伸びていたはずである。渡し船が見付の対岸から前田新田まで渡り、 |
陸上をきたのか舟で潤井川を遡上してこの地まで来たのかは不明である。 |
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前田の交差点 | 交差点の海抜 | 前田交差点を北に入る | 前田浅間神社 |
前田地区に入りY字路を右折すると小さな交差点に出る。右手角がタバコ屋。交差点の海抜が4.1m。 |
この交差点を真っ直ぐ行くと柳島で田子・鮫島からくる道と合流して川成島方向へ。今回はここで |
北の方に入っていく。やがて150m位の所に浅間神社が祀られていた。下街道を歩く第1回目は |
ここまでとして実歩行距離は6.6kmでした。海抜はスタート地点3.9m、最低2.6m、そして |
終点の前田浅間神社で4.1mとほとんどが4m前後という低地でした。到着時刻11:13でした。 |
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浅間神社本殿 | 本殿内の神座 | 祭神3柱の御神鏡 | 主祭神 木花開耶姫命 |
前田の浅間神社は主祭神は木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)で、山神社(大山祇神)と |
稲荷神社(宇迦之御魂神)も合祀されています。創建は不詳ですが、棟札にあるのは文化8年 |
(1811)浅間宮・山神宮・稲荷宮の三社を遷宮合祀という記述が見えます。現在の本殿は鉄筋 |
コンクリート造で昭和42年(1967)に改築したもの。神座の中には3柱のご神鏡がありました。 |
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本殿脇の石塔群 | 牛頭天王社と山王社 | 石祠内の双体神 | 浅間神社の説明板 |
ただ一つ棟札に祭主として吉原宿天満宮別当梅香院法印とあって、吉原の天神社の神官は山伏で |
この前田あたりまで来ていたのか、ということが気になりました。本殿の周囲には石塔群。造立年は |
天明8年(1788)の子待塔、享保5年(1720)の如意輪観音、嘉永元年(1848)の馬頭観音あたりで、 |
本殿背後には山神社の石祠があり承応3年(1654)と360年以上も経ったかなり古いものである。 |
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