竹之下・下古城



記 録 概念図 写 真



第1回  現地踏査記録


日時        2003年4月27日        
コース       富士市(自宅)8:20 → 沼津 → R246 → 御殿場(萩原北) → R138 →
           御殿場(市役所北) → 足柄街道 → 10:00深沢城 → 竹之下 →
           12:00興雲寺 → 常唱院 → 城の腰
参考地図     1/25000地形図(御殿場)   現地住宅地図(ゼンリン)
踏査地点     興雲寺   竹之下堀之内      
           常唱院   城の腰
           宝鏡寺


行動記録     深沢城から竹之下に行くには足柄街道をそのまま小山町方面に向う。途中東名
           高速を渡り、高畑山上部にある小山高校・足柄学園を過ぎると県道は高畑山を
           巻くように下っていてたけのしたの交差点に出る。その一帯が竹之下堀之内と
           いわれる所であり、南側に城の腰と呼ばれる所もある。
           現在の地名で言うと竹之下交差点(信号の表示は足柄駅入口)から北に行く県道
           150号は下古城方面、東は100m程行った所から北へ鮎沢川沿いに県道149号
           が生土方面、南はJR御殿場線の足柄駅を過ぎて足柄峠への登り道である。
           この堀之内という地名からは「屋敷跡」が想像されるが、興雲寺の開創から言って
           も竹下孫八左ヱ門の居館があったのであろうか。鮎沢川の左岸に三段の河岸
           段丘があり、下段は興雲寺の下149号線沿いの町並で中段が興雲寺のある所、
           上段が寺の上150号線沿いのあたりである。この一帯を堀之内と呼んでいる
           (沼館愛三氏による)。
           建武2年(1335)足利尊氏と新田義貞の弟脇屋義助との壮絶な竹之下合戦が
           繰りひろげられたのもこの地である。
           竹之下交差点からJR足柄駅に行く途中、足柄支所の南側に法華宗常唱院が
           ありその上段を城の腰といわれている地域がある。ここに竹下孫八左ヱ門(大森
           頼忠・一説に葛山惟重とも)の居館があったようである。沼館愛三氏、伊禮政雄
           氏によれば常唱院西南の台地上、中央やや北よりの所に井戸跡ありと言われて
           いるが現在はその位置が確定できなかった。
           城の腰を後にJR御殿場線を渡り足柄峠方面に行く途中、道路下段に立派な山門
           と本堂が見える。ここも竹下孫八左ヱ門が再興したといわれる曹洞宗大雄山
           宝鏡寺(当時は善光寺といった)である。
                                                行動時間 約1時間




第2回  現地踏査記録


日時        2003年5月4日
コース       富士市(自宅)8:00 → 十里木街道 → 裾野IC → R246裾野 →
           御殿場(萩原北) → R138 → 御殿場(市役所北) → 足柄街道 →
           竹之下(新宿区足柄学園グランド)9:20 → 高畑山 → 有闘坂 →
           竹之下堀之内
参考地図     1/25000地形図(御殿場)   現地住宅地図(ゼンリン)
踏査地点     高畑山(詰の城があったと思われる地点)
           有闘坂   竹之下堀之内  


行動記録     足柄街道で東名高速を跨いだ所、右に小山高校があり左に入ると新宿区立
           足柄学園という学校がある。その前に広いグランドがあり、ここから北東に張り
           出した尾根が高畑山である。
           グランドのまわりを一周して尾根に入る道を探すが見つからない。位置から言って
           東側を少し下った所であろうか、雑木林がやや開けた平坦地があって「詰の城」
           があった場所だと思われるが定かではない。
           沼館氏の調査された昭和11年〜12年頃「今此台地上には本城址と見るべき
           二つの郭がある。主郭は高処にありて南方に堀割があり、其西の一端は東北
           行して谷地に連り、他の一端は新道に及んでいる。其広さ約方五十米である。
           主郭の東方で約十米低い処に一郭がある。東方山下に屋敷を望む展望良好
           である。」と書かれているが、それから60年以上も経った今ではその様子は
           全くわからない。
           昭和50年頃調査された伊禮氏でもそれらしい所はあるが、自然地形に近く堀の
           跡も認めることができなかったとある。
           グランドと足柄学園の校舎との間に細く下っていく坂があり、傍らに「有闘坂」と
           書かれた看板が立っている。この樹林帯の道を下っていくと竹之下交差点
           いわゆる竹之下堀之内の地区に出る。あの足利軍と新田軍が死闘を演じた
           戦いの場所である。
                                               行動時間  約1時間




第3回  現地踏査記録


日時        2003年5月10日
コース       富士市(自宅)9:00 → 十里木街道(県道24号・国道469号) →
           御殿場(川島田) → R246 → R138 → 足柄街道 → 竹之下交差点 →
           県道150号 → 下古城10:00
参考地図     1/25000地形図(御殿場)   現地住宅地図(ゼンリン)
踏査地点     下古城   思橋   子之神社
           古宿   キツネ畑


行動記録     富士から下古城までは御殿場よりR246〜県道150号経由で入るルートと足柄      
           街道〜竹之下経由で入るルートがあるが、いつも通る足柄街道ルートで下古城に
           着く。富士からちょうど40kmであった。
           県道150号で東名高速を跨ぐ側道から下古城一帯がよく見える。東名高速道路に
           絡むように流れる馬伏川と西に立沢川とに挟まれた台地上の土地である。高所
           から見るとまるで深沢城を見るようであった。
           県道150号の馬伏川に架かる思橋で車を止め川を覗き込むとかなりの高さである。
           橋のたもとに標識があり細い道を子之神社に入っていく。鳥居の上石垣で囲まれた
           一段高くなった所に社があり、その周りには土塁らしき1mくらいの土囲いがあった。
           子之神社に立ち東を見ると下には水田が広がっており、元来人々は古宿というこの
           地に住んでいたらしい。古宿の下には馬伏川が流れ、その向こうは竹之下地区で
           ある。古宿は川沿いの地であり当然洪水の被害があったと想像できることから
           現在は小高くなった子之神社の周辺に民家が建ち並ぶ。
           細い道は子之神社で途切れており、そこから北へは畦道になっていた。訪れた時期
           も悪くあたりは一面の水田で田植えの真っ最中である。忙しく働いている農家の方の
           邪魔になるのでここから北の方には行くことを断念した。
           神社の北西方のキツネ畑といわれる水田地帯から北に広がる地域が下古城の
           城址であろうが、両川の合流地点に近い所におそらく北条氏の黒石玄蕃頭の
           居館があったらしい古屋敷といわれる場所がある。
                                                 行動時間  約35分


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