河 村 城



記 録 概念図 写 真



第1回  現地踏査記録


日時         2003年11月22日 
コース        富士市(自宅)8:35 → 十里木街道 → 御殿場(川島田)R246 → 神奈川県山北町(樋口橋) → 
            JR御殿場線山北駅前 → 河村城入口駐車場(盛翁寺横)10:10 → 河村城址 
参考地図      1/25000地形図(山北)  現地住宅地図(ゼンリン) 
踏査地点      本城郭  小郭  茶臼郭  馬出郭  西郭  北郭  北外郭  蔵郭  近藤郭  大庭郭  張出郭  
            馬洗場  蔵屋敷  大庭郭北斜面  お姫井戸   
            本城郭北堀切  小郭北堀切  西郭北堀切  北郭北堀切  本城郭東堀切  中央大堀切 
            近藤郭東堀切 


行動記録      富士から十里木経由R246に出て神奈川県に入り樋口橋の交差点まで行く。ここから左に折れると 
            山北町の中心部になり、JR御殿場線山北駅の手前から細い道を南に入り橋を渡る。しばらく行くと 
            小さい看板が河村城入口を教えてくれ、R246の下をくぐる車1台がやっとのガードを通ると盛翁寺の 
            参道だ。 
            参道から本堂を正面に見てその手前を左に入るとやや広い駐車スペースがある。ここにトイレと案内図が 
            建っている。山北駅からさほど距離はないが車で入ってくるには道は狭くわかりにくいように思われる。 
            駅周辺に駐車場でもあればそこから歩いて入ったほうがよいのかもしれない。 
            10:25足の屈伸運動をして出発する。結構急な登りが10分ほど続くが、樹林帯を抜けると目の前に小郭
             茶臼郭がそそり立つように見えてくる。 
            10:35茶臼郭着。階段を登ると曲輪の上は見晴台のようになっており、すぐ前に小郭とまた堀を挟んで 
            本城郭がよく見える。堀を覗くと畝堀がきれいに整備されていた。目測で堀底幅約7〜8m程度、長さ 
            25mくらいで5本の畝により4区画に分かれている。小郭・茶臼郭とも法面の角度は急で50〜60度は 
            あるだろうか、今立っている曲輪の平坦部から堀底までは深さも10m以上はあるだろう。この東端には 
            天水とは違う土の湿った部分があり「お姫井戸」といわれている湧水部である。 
            茶臼郭を下り堀の東端を道は本城郭に続いている。北東側から曲輪面に上がると標高220m、東西 
            距離約60m、南北約100mで南側を底辺に北側に長い三角形状の広大な平坦地である。河村古城跡 
            絵図にある西側の門跡は全くわからない。現在は公園の広場といったところか、きれいに整備されていて
            非常に 快い空間を作っている。三角形の頂部北端にある小祠の裏にまわり小郭との間の堀を覗く。 
            この堀も8本の畝で7区画あり、長さ・幅・深さ共小郭北側堀切とほぼ同様の規模に見受けられるが、 
            1区画の大きさはそれよりかなり小さくなっている。本城郭の曲輪面より小郭が幾分低く、小郭から茶臼 
            郭がまた低くなっている。 
            本城郭を一回りしてみると北側に河村城の歴史を物語る金属製の立派な説明板が6枚にわたり丁寧な 
            解説をしている。東には細長い蔵郭が見え、南西側には浜居場城のある尾根の展望が良い。 
            曲輪の南端にある馬出郭を基点にしたV字状のもう一方の北西に伸びる尾根に向かう。本城郭の南端 
            から1mくらい下がった所に洒水の滝方面の標識があり、入っていくとそこが土橋になっていて左に一段 
            下った馬出郭、右側は樹林の中に馬洗場の低地がある。ここはV字の沢が上がってきた地点であり、 
            当時も水曲輪とも呼ばれた水源であろう。 
            土橋を渡りおえてすぐ右手に注意してみると西郭への入口がある。木の幹に白いテープが巻かれ、その 
            奥に赤布が下った所だが気がつかなければ素通りしそうな所である。この尾根の遺構は整備されておら 
            ず、地形図・発掘報告書と見比べて進むしかない。雑木地帯の中その北端は馬洗場との境目もわから 
            ず、北西側の北郭との間にある北堀切のみ確認できる。 
            北郭は南北に長く絵図の表示には東西10間(約18m)、南北22間(約40m)となっている。北郭北堀切 
            は幅5m程度で深さは現在3m位になっているが、堀底には孟宗竹が密集して生えている。 
            その北側から尾根はますます細くなり北外郭のなんとなくわかる曲輪面(平坦部)は幅10m、南北長約 
            65mくらいであろうか、およそ10mの桧の他雑木類に覆われている。この北外郭の北堀切から北側が 
            かなり急峻に切れ落ちていて下から見れば聳え立っている感じがするであろう。 
            11:40本城郭まで戻る。本城郭の東側からは東堀切を挟んですぐ蔵郭が見える。堀切といっても現在は 
            必ずしもその遺構は明瞭ではなく、やや細長く窪んだ部分が両曲輪を仕切っているという風情だ。蔵郭 
            から東に伸びる尾根は緩やかで近藤郭・大庭郭・張出郭と続く曲輪面は広くあまり人工的な部分が見ら 
            れない。この河村城址の遺構で特徴的なものとして、東側の尾根部分は大森氏時代の遺構のままで 
            本城郭から(あるいは蔵郭の東にある大堀切から)北側の2本の尾根部分は後の北条氏が武田氏に対し
            ての防備として手を加えたものであることがわかる。 
            蔵郭から大庭郭まで現在山北町教育委員会の調査中で12月まであまり立ち入ることができないが、 
            何本か設定されたトレンチからこの山域の地層が見られたのは個人の踏査ではなかなかわからない
            部分では ある。中を覗くとロームとスコリア層の上に腐植土が覆いやはり足柄山塊に見られる富士山
            噴火の影響が 色濃く出ているものである。 
            本城郭東堀切から道は蔵郭には入れず北側のやや下った所につけられている。この道を近藤郭に向か 
            いながら左手(蔵郭の北側斜面)を見ると6〜7m位下に2段の平場が見える。上から見ると腰曲輪状の 
            部分であるが蔵屋敷と呼ばれているおそらく貯蔵庫でもあった所であろうか。ただ建物跡とかいう記録は
            まだ ないようだ。 
            蔵郭を東に回りこむと近藤郭の間の中央大堀切に出る。道は堀底の北側下段についているが堀底まで 
            上がってみる。目測で南北長約50m、東西幅約20mという巨大な堀跡には全く圧倒される。蔵郭、近藤 
            郭両側の法面を見ると傾斜角は40〜50度はあるだろうが、現在の深さは5〜6m程度でも当時ではそ 
            の倍はあったと思われる。近藤郭の中央部には東西に長くトレンチが設定されていて2m位の深さまで
            掘って あったがちょうど約1mずつ半分に地層が分かれているのがはっきりとわかる。表土の下の黒褐色
            のスコ リア層は何mくらいまであるのか見ることはできないが、このように富士山宝永噴火の時の噴出物 
            が大量に覆っていることは間違いない。したがって中央大堀切の規模から言って現在の深さより2倍いや 
            それ以上かもしれないのである。 
            近藤郭の東堀切は現在はミカン畑になっていてその規模ははっきりとつかめない。堀切の東側には広大 
            な大庭郭が広がっている。曲輪面の東側を横切って南側に回ると大手口に下る道があり標識が建って 
            いる。当城址で一番広くまた一番高い曲輪のように思われるが、南東側に扇状に開けた大庭郭とそれに 
            続く張出郭はかなり眺望はよいものの防備に関してはいかがなものだろうか。本城郭より北側に続く 
            曲輪群とは全く異なった様相である。これもこの河村城を使った時代がそれぞれ2時代違った敵を迎えた 
            ためであろう。 
            残念ながら今回の踏査時点では曲輪が調査中のため、蔵郭から張出郭まで立ち入ることができず思う 
            ように全体を見ることができなかった。 
                                                          行動時間  約3時間 



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