生 土 城



● 踏査記録から(考察)


はじめに 


応永16年(1409)関東公方の足利満兼が死去すると子の持氏が第4代関東公方となったが12才であったため、補佐した 
のは関東管領の上杉憲定であった。その後憲定が辞任したので上杉4氏の内、犬懸上杉の朝宗の子禅秀(氏憲)が就任 
した。 
応永22年(1415)持氏18才の時、常陸の越幡六郎が罪を犯したので所領を没収したが、この処置が過酷だとして禅秀は 
諌めたが聞き入れられず管領職を辞任した。そして持氏は後任の管領職に山内上杉氏の憲基を選んだのであった。 
応永23年(1416)上杉禅秀が挙兵し、関東公方足利持氏を攻めた。これが「上杉禅秀の乱」の始まりである。 
奇襲を受けた持氏は鎌倉から逃れ小田原に行く。ところが当時の小田原は禅秀側についた土肥氏や土屋氏がいて、持氏は 
攻撃を受けさらに西へと追われていくのである。駿河の守護である今川範政は持氏無事の情報を幕府に送るが、その内容 
は「当国駿河大森におわします」というものであった。 
では、この「大森」という所はどこであろうか。この時代大森氏は御厨地方を治める国人であった。大森館跡は現在の裾野市 
にあるが、また、小山町の生土地区には生土城の城主が持氏だとする伝承がある。 
いずれにせよ、この後持氏は守護今川氏の保護下で静岡の瀬名に移ることになる。 


「大森」生土説をとって


禅秀の乱後、足利持氏は幕府に援軍を要請して反撃に転じる。駿河の守護今川範政は関東の諸将に持氏への合力を求 
め、自らも足柄越・箱根越の二手に分かれ追撃する。やがて追い詰められた禅秀は翌年自害して果てたのであった。 
この時の大森氏はあくまでも独自に、持氏との密接な関係から支援したもので、決して今川軍に組み込まれるものでは 
なかった。持氏を小田原から「当国駿河大森」へ案内した箱根別当の証実は大森頼春の弟(乗光寺の開基、大森頼明の 
次男)である。 
小山町生土にある乗光寺には大森氏六代の宝篋印塔があり、これは開基の頼明・妻の是妙とその子頼春、頼春の子氏頼、 
氏頼の子実頼と藤頼のものである。 
このことから応永23年頃には大森氏は生土の地にしっかりと基盤を持っており、おそらく「駿河大森」はここ生土ではないか 
と思われる。 
では生土城とは単独の山城であろうか。それとも城下に居館を持った詰の城であったろうか。一説には単独ということも言わ 
れているが、ここは居館のある詰の城という仮説を立て検証してみることにする。 


乗光寺付近説と藤曲屋敷説 


静岡県郷土研究第九輯の中で沼館愛三氏は次のように述べている。「地形上から見て城山の東方御園の台地に着眼せね 
ばならない。」これに対し御殿場市史研究Tの中で伊禮正雄氏は「この城に居館として沼館氏は生土の乗光寺付近を宛て 
られたが、筆者は一考を要すると思う。この城は居館の詰の城というよりも単独の城であったと見られるし、強いて居館を考 
えるならば、むしろ藤曲館の方が妥当ではなかろうか」と反論しているのである。 
藤曲屋敷(館)跡の場所は推定ではあるが、野沢川が東から北へ屈曲し川に包み込まれるように隆起した台地状部分だと 
思われる。ここは南に鮎沢川とその支流野沢川がまわりこみ、東に城山が聳えている。鮎沢川対岸の県道が足柄峠への 
分岐となった地点あたりから見ると、東に詰の山城を控え独立した河岸段丘上に居館跡があっても決しておかしくはない 
地形である。 
一方、城山の東方にある乗光寺付近の地形を見ると、沼館氏の言われる着眼せねばならない地点は東に西沢川、西に 
頓沢川、南に鮎沢川と三方が川に囲まれ頓沢川の西に城山が控えている。この台地状の場所も先の藤曲に劣らず居館跡 
としては好適地に思われる。 


むすびに 


「駿河記」にある足利持氏朝臣三年居城之跡なる地点を決定づけるのは大変に困難なことではある。しかし、地形的に見て 
その上数少ない地元資料の面からも、私見として沼館氏の乗光寺付近説を支持したい。 
先ず、地形的には先述した沼館氏の見解と、実際に城山(生土城址)を踏査した時に実感したことだが、この遺構を見て尾根 
の南東側つまり乗光寺方面に向いて下から第V郭・第U郭・八幡郭・その上の主郭部分・堀割の先の出丸と続いているので 
ある。この尾根の東側は頓沢川まで落ち、南側は50〜60度近い急傾斜となっている。堀割の北、出丸より中島地区に下り 
藤曲屋敷にも行けるが、この出丸よりも城址部分の方が低くどう見ても不自然ではないだろうか。 
また、地元資料上においても「駿河国駿東郡生土村村鑑帳」から「當村ニ古城跡御座候 城山と申居村より西之方ニ御座候 
管領持氏公城主之由傳候」とある。 
次に地名(小字名)から幾つか拾ってみる。先ず頓沢(トンザワ)は殿沢からきていると沼館氏は述べている。他に御園・ 
城下・上屋敷・下屋敷・関屋口等々今残っている地名からも、かつての城下町にあたる場所ではなかったろうか。この御園 
地区はその昔、縄文中期集落地であったと思われる土器が発掘され、現在「御園遺跡」と命名されている所である。 
以上の点から持氏朝臣三年居城の確証はないにしても、城山の生土城址は詰の城で生土地区乗光寺付近に居館跡が 
あり、公方を案内した「大森」ではないかと推測するものである。 
                                                                   2003年記


【参考文献】 
      ・ 「駿河記」  下巻
                   桑原 藤泰     昭和7年9月
     ・ 「小山町史」  第6巻  原始古代中世通史編
                   小山町史編纂専門委員会     平成8年3月
 
     ・ 「小山町文化財のしおり」  第4集城址編
                   小山町教育委員会
 
     ・ 「小山町歴史資料集  生土村篇」
                   小山町歴史を学ぶ会(小山町教育委員会)     昭和57年3月
 
     ・ 「駿東地方に於ける城郭の研究」  静岡県郷土研究第9輯
                   沼館 愛三     静岡県郷土研究協会     昭和12年10月                   
 
     ・ 「御殿場地方の中世城址」  御殿場市史研究T
                   伊禮 正雄     御殿場市教育委員会     昭和50年6月
 
     ・ 「日本城郭大系  第9巻  静岡・愛知・岐阜」
                   菅 英志     昭和54年6月
 
     ・ 「乗光寺の開創」  小山町の歴史  第8号
                   榑林 一美     小山町史編纂専門委員会     平成6年3月
 
     ・ 「地名風土記(生土)」  鮎沢  第2号
                   榑林 一美     小山町立図書館内「鮎沢」同人     昭和54年11月
 


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