遠州横須賀 三熊野神社大祭



撮影日   2012, 4, 8



1 神社
          神社名     三熊野神社(三社権現)
          所在地     静岡県掛川市西大渕5631−1
          創建       伝 大宝年間(8世紀初頭)
          社格       旧 県社
          祭神       伊邪那美命(イザナミノミコト) 速玉男命(ハヤタマオノミコト)
                    事解男命(コトサカノオノミコト)
          神紋       左三つ丁子巴
          由緒       文武天皇の皇后が安産祈願で熊野大社に東方に三社を造営して
                    日夜崇敬するよう誓いをたてたことから、大宝元年(701)に熊野
                    三社を遷座させたという。建武2年(1335)元旦には新田義貞が
                    戦勝祈願に参拝、楠木正成の鈴を奉納した。さらに天正6年(1578)
                    徳川家康が当地に横須賀城築城後は歴代城主・家臣・城下あげて
                    信仰を深め長く縁結び・子授け・安産の守神として崇敬されている。



2 祭典日程
          4月第一 金・土・日
          訪問日  2012, 4, 8(日)
          【第一日目】(揃)     午前 お幟建て   
                          午後 祢里曳き回し
          【第二日目】(宵宮)   午前 祢里供奉順籤引き 三社祭礼囃子奉納祭 
                              各町内役廻り 
                         午後 各町内役廻り 夜祭り 
          【第三日目】(本祭)   午前 子授けの神事 祢里曳き回し 例大祭 神幸祭
                              神輿渡御 
                         午後  祢里曳き回し 神輿還御 還幸祭 地固め舞奉納
                              田遊び奉納 夜祭り 千秋楽



3 山車・屋台
          種類        山車(祢里)
          台数        全13台
          型          一本柱万度型山車
          方向転換     2輪(梶なし=前方長柄のみ)
          人形        有
          囃子        太鼓・笛・手踊り



4 山車・屋台 詳細      →  詳細ページへ
          西新町・旭組        一本柱万度型山車(人形・出し=二見ヶ浦)
          西田町・に組        一本柱万度型山車(人形・出し=鞍馬山)
          大工町・せ組        一本柱万度型山車(人形・出し=稲村ヶ崎)
          東新町・め組        一本柱万度型山車(人形・出し=日の出に鶴)
          東田町・た組        一本柱万度型山車(人形・出し=五條大橋)
          河原町・か組        一本柱万度型山車(人形・出し=川中島)
          軍全町・ゑ組        一本柱万度型山車(人形・出し=大森彦七)
          西大渕・み組        一本柱万度型山車(人形・出し=南総里見八犬伝)
          西本町・い組        一本柱万度型山車(人形・出し=太田道灌)
          中本町・は組        一本柱万度型山車(人形・出し=高砂)
          拾六軒町・ち組       一本柱万度型山車(人形・出し=須佐之男命)
          新屋町・あ組        一本柱万度型山車(人形・出し=神功皇后)
          東本町・ろ組        一本柱万度型山車(人形・出し=司馬温公)



5 所感     4月8日の日曜日、朝早くに出発して東名高速で掛川インターへ。山車(ここでは
          祢里という)の曳き回しの前に各会所に行って置いてある山車を撮影するのが一番
          しっかりと撮影できる。掛川から高天神城跡、横須賀城跡へは数年前に来たことが
          あるので、祭典会場に行くのに迷うことはなかった。三熊野神社大祭は現在は合併
          して掛川市になっているが、旧大須賀町の横須賀地区である。横須賀城の城下で
          江戸天下祭と同様に城主の拝謁のある町民の祭りであった。山車の形状は古来の
          一本柱万度型で2輪である。2輪のため方向転換がそんなに難しくはなく、前方に
          突き出した2本の長柄を曳きながらの転換。祢里は練って歩くことからきているのか。
          「シタッ シタッ」という声とともに長柄を左右に振りながら蛇行して歩く。どうやら
          この声は大名行列の「下に」という声で、町民通行人が道脇に正座して頭を垂れた
          ことからきているという説もあるようだ。驚いたことに本祭神輿行列がお旅所をまわり
          14時に還御するまで街道を行く祢里は祢里を止めて曳き手は脇で正座をして頭を
          垂れて行列を見送っている。今でもその風習が残っているようだ。
          18世紀前半、1700年代に横須賀藩主西尾氏の家臣が江戸の天下祭に興味を
          もって、郷土横須賀に祭りをもちこんだことから今日まで伝わってきたという。
          全国でもこれだけ1本柱万度型の山車が揃っていることは珍しく、平成8年(1996)
          から度々神田祭に参加しているというのは大変うれしいことである。
          祢里の構造を見てみると、2輪の源氏車の上にせいご台が載り、中心に心源棒と
          呼ばれる柱を立てて花飾りを垂らす。夜には花を下して提灯で飾る。
          花で飾った柱の上は四角い万度を付けてその上は岩座で人形が載る。人形までの
          高さはおよそ6mばかりになろうか。古い街並みが残る横須賀の街道を三熊野神社
          を中心にして2kmばかりを練り歩く。祢里の飾りは人形や幕、万度と花の他に、人形
          下の鍋蓋と囃子台勾欄と勾欄下に彫刻が付いている。しかし、やはり祢里の見所は
          何と言っても出し=人形であろう。13町内が自慢の人形を高々と掲げ「シタッシタッ」
          と練っている。囃子は前に2つの締太鼓、真中に大胴(大太鼓)を吊り下げ、笛が
          乗る。演奏は江戸からきているものの、独自の発展を遂げ「三社祭礼囃子」として
          県の文化財指定も受けている。
          祢里の他に下調べで見たかったのは、朝から執り行われている神事の最後の方で
          行われる田遊びと地固め舞の奉納であった。これは、午前中拝殿内で行われる
          「子授けの神事」とお旅所2ヶ所への神輿渡御が帰ってからのことなので夕方に
          なってしまう。しかも還幸祭が長引いて神輿の還御がだいぶ遅れてしまい、所用の
          ため、地固め舞の途中で境内の舞台前を去らなければならなくなった。田遊びは
          見られずじまいである。
          この祭り、前段にも書いたように、祢里の中に神幸祭の渡御行列がすばらしい。
          祢里の細部写真を撮る間、10時20分から神幸祭と予定にあったので中断して
          拝殿前に駆けつける。かなりの人が集まってきていた。それから拝殿内の神事が
          終わるのを待って1時間位してから行列に参列する人々が隊列を組む。やっと
          出発する時には境内の出口の方の最前列に陣取って行列を撮影できた。
          神官を先頭に猿田彦、少年たちが打つふれ太鼓、ささら、鈴を振る稚児が行き、
          八咫烏の幟、裃を着て道具を持った子供達、その後に「ねんねこさま」という人形を
          抱えた黒子が続く。まだまだ行列は長い。裃正装の人たちが弓矢を持ち、神紋の
          幟の後、矛や棒の先に四神を乗せたものを担ぎ、やっと次に神官たちに担がれた鳳輦
          がやってくる。その後ろに巫女達、地固め舞を奉納する若者達と行進して、苗床
          を担いだ人の後に町内各組の総代と消防団。最後に大勢の子授け神事を行った人達。
          本当に長い長い行列になった。しっかりとご神幸行列を見学したのは秩父以来2度目
          になるが、大変厳かでいいものである。鳳輦の通過時には自然に頭が下がるものだ。



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