八王子まつり
撮影日 2012, 8, 5 |
1 神社 |
神社名 八幡八雲神社 |
所在地 東京都八王子市元横山町2−15−27 |
創建 延長2年(924) |
社格 旧 郷社 |
祭神 誉田別尊(モムタワケノミコト) 素戔嗚尊(スサノオノミコト) |
神紋 左三つ巴 祇園守 |
由緒 八幡神社の創立は延長2年(924)武蔵守隆泰が国司の時、この地へ |
石清水八幡宮を祀り国土安全を祈願したのが始まりで、その後隆泰の |
長子、小野義孝が武蔵権之守として当地に赴任し父の遺志を継いで |
八幡宮を再建した。そして小野氏を横山氏と改めこの地を横山村と |
した。八雲神社は俗に天王様と称し延喜16年(916)大伴妙行が |
深沢山の頂上に奉斎し、天正年間に北条氏照がこの山に城を築いて |
氏神として崇敬した。慶長3年(1597)大洪水のため神体が流失、 |
八王子新町の北にある板谷ヶ淵に漂着した。そして闇夜に御光を放ち |
発見された神体を八幡社の境内に遷座させた。それから承応2年 |
(1653)に至り八幡社と棟を並べ社殿を建て両社とも尊崇されてきた。 |
神社名 多賀神社 |
所在地 東京都八王子市元本郷町4−9−21 |
創建 天慶元年(938) |
社格 旧 郷社 |
祭神 伊邪那岐命(イザナギノミコト) 伊邪那美命(イザナミノミコト) |
神紋 左三つ巴 |
由緒 天慶元年(938)武蔵介に任じられた源経基が国土豊穣、万世安穏 |
を祈願するため、滋賀県多賀大社から分祀しこの地に勧請したと |
伝えられている。その後文応元年(1260)北条時頼が国内巡行の |
折、この地で病に倒れて本社に古鏡1面を奉納して祈願したところ |
病は治癒したので社領7反歩を寄進し祈願所にしたという。 |
2 祭典日程 |
8月第一 金・土・日 (八幡八雲神社例大祭は7月23日) |
訪問日 2012, 8, 4(土) 5(日) |
【第一日目】 午後 子ども音頭 宵宮の舞 |
【第二日目】 午前 多賀神社例大祭 山車曳き回し |
午後 山車曳き回し 神輿渡御 関東太鼓大合戦 民謡流し |
居囃子 |
【第三日目】 午前 山車曳き回し |
午後 山車曳き回し 八幡八雲神社神輿渡御 獅子舞 居囃子 |
多賀神社千貫神輿渡御 神輿連合渡御 山車辻合わせ |
還幸祭 山車年番送り |
3 山車・屋台 |
種類 山車 |
台数 全19台 |
型 八王子型(単層唐破風2台・2層鉾台11台・3層鉾台2台 |
四つ棟3台・八つ棟1台) |
方向転換 4輪 前梶自在方式(据輪構造) |
人形 有 |
囃子 太鼓・笛・鉦・踊り |
4 山車・屋台 詳細 → 詳細ページへ |
【上地区=多賀神社】 |
追分町 八王子型唐破風2層鉾台山車(人形なし) |
八幡町一・二丁目 八王子型唐破風2層鉾台山車(人形=神武天皇) |
八幡上町 八王子型単層唐破風山車(人形なし) |
八木町 八王子型唐破風2層鉾台山車(人形なし) |
小門町 八王子型唐破風2層鉾台山車(人形なし) |
日吉町 八王子型唐破風四つ棟堂宮形式山車(人形なし) |
千人町一丁目 八王子型唐破風2層鉾台山車(人形なし) |
大横町 八王子型唐破風2層鉾台山車(人形なし) |
元本郷町 八王子型唐破風四つ棟堂宮形式山車(人形なし) |
平岡町 八王子型唐破風2層鉾台山車(人形なし) |
【下地区=八幡八雲神社】 |
本町 八王子型唐破風3層鉾台山車(人形=浦島太郎) |
中町 八王子型唐破風2層鉾台山車(人形=諫鼓鶏) |
三崎町 八王子型唐破風四つ棟堂宮形式山車(人形なし) |
八日町一・二丁目 八王子型唐破風2層鉾台山車(人形=雄略天皇) |
横山町三丁目 八王子型唐破風3層鉾台山車(人形=織田信長羅陵王) |
上八日町 八王子型唐破風2層鉾台山車(人形=素盞嗚尊) |
元横山町 八王子型唐破風八つ棟堂宮形式山車(人形なし) |
南町 八王子型単層唐破風山車(人形=応神天皇・武内宿禰と龍神) |
南新町 八王子型唐破風2層鉾台山車(人形なし) |
5 所感 八王子まつりは国道16号線を境に上地区の多賀神社、下地区の八幡八雲神社と |
2社の宮神輿と共に19台の山車を繰り出す盛大な祭りである。江戸の祭りは天下祭 |
の江戸型山車の最盛期から徐々に神輿祭りへと変わってきた。いや、交通事情等で |
変わらざるを得なくなってきたというべきだろう。その中でも、神田の山車の影響を |
受け、人形山車を守り続けてきた八王子も明治30年の八王子大火や昭和20年の |
戦禍で焼失、また街中の電化によって電線が張り巡らされて人形を載せることが |
できづらくなってきた。元々は、神田同様1本柱を後方から立ち上げその上に人形を |
載せるスタイルであったが、山車新築・改修の度に人形は降ろされ鉾台は彫刻のみの |
装飾となっていったのである。 |
中央道を東京方面に走るのは初めてであったので十分余裕をもって朝7時には家を |
出た。途中で休憩をはさんだが八王子インターを出て甲州街道の中心部に着くのは |
10時頃であった。ホテルを中心部の甲州街道沿いにとってあったため、交通規制の |
かかる午後2時前には着くことができた。車をホテルの駐車場に置き、早速会所回り |
を始める。まず、ホテルの向かい側甲州街道(国道20号線)を渡って、八日町1・2 |
丁目の山車が見えていたので行ってみる。狭い路地に人形も上げられ幕も提灯も |
つけられて出番を待っていた。撮影開始。予定通り撮影を始め、会所前に置かれた |
パンフレットをいただき効率よく回る順路を決める。何しろ19台あるので、曳き出さ |
れてからでは思うように撮影できないため、本当に効率よく回らなければならな |
かった。 |
八王子の山車については来る前から大変関心をもっていた。その理由は山車の |
型が江戸型山車の流れで、川越のように囃子台に唐破風屋根が付き、後部鉾台 |
は2層固定あるいは3層迫り上げで、元々はほとんどが人形を迫り上げていた。 |
これは江戸型山車が八王子や北関東、湘南や青梅・津久井まで伝播してきたこと |
によるものである。そして、この流れが箱根を越え吉原、富士宮にも来ているのでは |
ないだろうか。箱根を境にしてまだ吉原への伝わりには確証がないが、おそらくそう |
大きな違いはあるまい。 |
午後2時から甲州街道を車両通行止めにして、曳行が始まってしまうので、取り急ぎ |
国道北側地区を回ることにしたが、これがなかなか範囲が広く朝からの運転疲れと |
暑さでクタクタになりながら何とか2時過ぎには13台まで撮れたが、2時を過ぎると |
もう2台は出てしまっているため、後を追いかけて歩きながらの撮影となる。 |
当然、ここの山車の売り物である彫刻の細部撮影は思うようにできない。しかたなく |
明日の朝早くから2台の撮り直しと残りの6台を回ることにした。雨でカバーをかけら |
れた状態にならないことを願いながら初日の撮影を終了。 |
夜は宿泊ホテルの前が祭りのメイン会場であるので、全く動き回らずにホテル前に |
待機して広い国道が歩行者天国なので堂々と車道中央部に出て山車のすれ違い、 |
複数の山車を寄せ合い「ぶっつけ」と呼んでいる囃子の競い合いを見ることができた。 |
翌日は朝8時半にはホテルを出て、撮り直しの2台と残りの6台を急いで回る。 |
町内によっては10時出発だったり11時だったり時間が違い、前もってわからない。 |
とりあえず行ってみるが、何とか最後の日吉町1・2丁目の山車置場に着いた時には |
出発直前で無事完了となった。19台の山車は形状は2層鉾台型が1番多いもので、 |
四つ棟堂宮型もあるが、方向転換は吉原と同じ4輪の前輪自在方式(据輪構造)と |
言われている前輪車軸部分に2枚の鉄板をすり合わせたものが付き、円盤の中心部 |
に軸を通し自在になっている。このあたりも吉原が八王子の流れか、といった根拠に |
なろう。 |
彫刻は正面唐破風部分、後部鉾台胴羽目や花頭窓などにそれぞれ秀逸な作品が |
見られる。制作は大正・昭和初期に山車彫刻で活躍した佐藤光重、4代目小松光重 |
の2師の作品が多い。人形については6台ほどしか現在は載せて曳かないが、横山 |
町3丁目の「織田信長・羅陵王」八幡町1・2丁目の「神武天皇」などは神酒所(会所) |
に飾られていた。中でも文政2年(1819)の旧八幡町2丁目山車に載せられた諫鼓鶏 |
は2代目原舟月の作で、載せられることはもうないが町内の神酒所に奉られている。 |
他の、神武天皇や羅陵王、素戔嗚尊は名人とうたわれた3代目原舟月の秀作である。 |
山車撮影後、上地区西八王子駅前の市立図書館で報告書を閲覧、コピーをとる。 |
最後に、4日(祭典第二日目)午後に通行止めとなった甲州街道で17団体の関東 |
太鼓合戦は圧巻であり、その迫力とリズムには見物人を圧倒するものがあった。 |